「古武士(もののふ) 第16話 東亜同文書院を救う」
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昭和19年4月東亜同文書院入学の学生が、寮に入った時の様子を次のように残している。
「寮の食堂は食料が豊富だった。時には内地を偲んで雑炊の様な時もあったが、 内地の配給制食糧不足に悩んでいた我々には、上海の食いものはすべてが魅力的だった」(四五期生回想録) {東亜同文書院大学史}
学生がこのように感じる裏では、食料を確保するために道上が動いていた。
食料が不足し極度のインフレが進行していた。
昭和18年から19年の一年間に物価は二十倍以上に高騰した。
学生が払う授業料ではとっくに賄いきれなくなっていた。
本間喜一学長は道上に、何とかしてもらえないだろうかと頼み込む。
東亜同文書院を既に離れていたが(四年で教職を降りた)、
粉麦統制会、鉄鋼統制会※ 等の理事をしていた道上は 米、麦、油の確保に廻った。
中国貿易連合会、化学工業統制会、ゴム統制会、金融統制会、軽金属統制会、皮革統制会、油脂統制会等にも顔を出した。
この頃は上海も在留邦人の経済は全て統制されていた。
道上がやった事は、通常ではありえないことであった。
※1941年8月国家総動員法にもとづいて公布された重要産業団体令により,各産業別に組織された戦時下の産業統制機構。現在独禁法で禁止されているカルテル、トラスト。
40年後愚息雄峰は「お父さんどうやって お金を集めたのですか?」
「そんなの知らん!」 何度も尋ねるとしまいに、絶対に言ちゃいかんぞ!と釘を刺してから 「たばこ1箱が7元。それが右から左に16元で売れた(売り手市場)。
その差額は全部金の延べ棒にして学長に渡した」
「市場(いちば)のお金も相当ありましたでしょう?」
それも表立っては出来なかったが相当まわしたそうだ。
「それらのお金は今の価値に換算すると数百億以上になるのではないでしょうか?」
「そうかもしれない 」
「後に愛知大学を作るのにそのお金が使われたと聞いていますが」
「そうかもしれない」
「それ以上あったはずですが残りのお金は?」
「そんなこと、知らん」 と黙して語らない道上伯に愚息は
「お父さん、では何故お父さんの車を何台も売ったのですか」
「姿勢の問題だ!」と。
とにかく自分の宣伝になる事を言わない男でした。
「愛知大学の建設資金は、用意できるはずのない総長が用意した事になっていますが」
「君はそういったつまらない事を考える暇が有ったら、信じる道をもっとまっすぐ行きなさい」
そして「言うなと言われた事は絶対に言っちゃだめだ!」
どういった意味で言っているのか、今でも良く分からないが もう死んで十年以上経つのだから良いのではないかと愚息は躊躇しながらも書く。
人の為と言えど闇市商人の様な事をしたことか?
自分が多くの人を助けた事を知られたくないのか?
道上のやった事を手柄にしている他人達を同情してか?
・・・・・・?
「本物」道上伯を理解するには偽物には無理である。
愚息にはまだ試練が足りないのだろう!
とにかく道上のおかげで大学の学生・教職員は引き上げまで餓えを免れた。
後に愚息雄峰は当時の東亜同文書院生に聞いて廻ったが、そういった事実を知っている者はいなかった。
しかし当時、このような事が出来る力を持っている者は、道上以外にはいなかったという事は知らされた。
昭和20年の2月頃から、大学は教職員の家族に帰国を進め始めていた。
既にこの前年道上の女房小枝は長女を連れて八幡浜の道上家に引き上げていた。
【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。