「古武士(もののふ) 第35話 東京オリンピック開幕」 ________________________________________
いよいよオリンピックが近付いて来た。
東京オリンピックにおいて柔道が種目として誕生したのは開催地が日本だからと思っている人達が多かった。
事実開催地が日本である事を利用して柔道をオリンピックに組み入れようとヨーロッパの柔道連盟は動いた。
しかし当初柔道は東京オリンピックのみの種目の予定だった。
だが軽量級、中量級、重量級、無差別、このうちの2階級をヨーロッパがとれば、いや、無差別一つでもとれば、 柔道がオリンピック種目に組み込まれるという可能性をヨーロッパ柔道界は考えていた。
道上はオリンピックの種目に柔道が組み入れられる事を必ずしも良しとしなかった。
時期尚早である。本来の柔道ではなくなるという懸念があった。
しかし、もうヘーシンクの出場を止める事は出来なかった。
ダッチ・シェル(石油会社)から道場を貰い受け
橋の名がヘーシンク、通りの名がヘーシンクに変えられる勢いであった。
そこで道上は、日本柔道界に「このまま神永五段を出せば間違いなく金メダルはヘーシンクに持っていかれてしまう。
もっと別の選手を出すべきだ」とアドバイスをしたが日本側は聞く耳を持たなかった。
残念なるかな日本柔道界の世間知らず。
先を見通す目、戦略の無さ、このままでは完全に柔道はオリンピックに吸収され 本来の柔道は無くなってしまう。
道上は予算の無いフランス柔道界のため鎌倉の禅寺・光明寺住職にフランス柔道家の滞在を頼み込み、 フランス人柔道家百一人を
引率して光明寺に滞在していた。
集団生活をしながらオリンピック柔道を見学させ、併せて日本観光をさせるためだった。
道上はヘーシンクの勝利を確信していたから、当日も試合会場には行かないつもりだった。
オリンピックの試合当日は、引率して来たフランス人たちを送り出したら、一人ひっそりと寺でテレビ観戦することに決めていた。
祖国の柔道がふたたび敗れて、パリの世界選手権のときのように、いわれのない呪詛、誹謗を受けるのは耐えられないと思ったからだった。
ヘーシンクが世界選手権で覇者となったところで道上のオランダでの役割は果たしたと思っていた。
貧しい育ちから一躍オランダの英雄となったことでヘーシンクの
道場への入会申し込みは後を絶たない。
いやヘーシンクの道場だけではなくオランダ中の道場に入門者が
増え、オランダの柔道は少なからず活性化した。
道上がオランダに柔道を広めるという役割はこの時点で完成した。
アフリカ連続チャンピオン、ヨーロッパチャンピオン、色々な選手を育てて来たが、 オリンピックはその一出来事であった。
ただこのままいくと柔道はスポーツ、強いてはオリンピック・ビジネスに飲み込まれ 武士道としての日本文化では無くなってしまう、その懸念が強かった。
そんな思いの中、試合当日(10月23日)が近付くにつれて、ヘーシンクは次第に落ち着きを失っていた。
パリの世界選手権戦前夜とそっくりだった。
道上がオランダでたまたま知り合った安藤直正(文藝春秋元編集長)が、オランダ選手団の宿舎を訪ねたときだった。
チームの責任者コーニングが旧知の安藤を見つけ、「安藤さん、道上先生を探してください」と言う。
「ヘーシンクが、道上先生がそばにいてくれないと不安でたまらない、と言ってきかなくて困っています」
安藤は早速、東京都内の道上姓の家を片っ端から電話をかけたが
わからない。
道上の実弟が千葉にいると聞き及んで、ようやくこの弟から道上の居場所を聞き出した。
こうして道上のところに、オランダチームの面々が現れた。
道上がヘーシンクに会ったのは、試合の二日前、10月21日のことだった。
直前まで、無差別にエントリーする選手は、猪熊功(当時・順天堂大学助手)とみられていた。
ヘーシンクにとっては、猪熊は初めて対戦する選手で、稽古すらやったことがなかった。
そのため一層不安が増幅したのだろう。
猪熊は一本背負いを得意としていたが、ヘーシンクはいまだ対戦したことのないこの相手を想定して、 東京へきてから十分稽古を尽くし、作戦も練っていた。
ヘーシンクが猪熊を想定して稽古をしているという情報は
日本側にも伝わっていた。
したがって、急遽選手を変えてくるかもしれなかった。
一方神永が、対ヘーシンク用の特訓を積んでいるという情報が入ってきた。
苦手のランニングと激しい練習によって足を鍛え、百十キロの体重を百キロまで絞り込んだという。
ぐんと動きが良くなり、得意の左体落とし、内股、大外刈りに冴えを増したと伝えられてた。
ヘーシンクはこうしたことを道上に一気に訴えた。
じっとヘーシンクの言葉を聞いていた道上は、静かにいった。
「猪熊、神永のどちらがきても、君とは実力が違う。
断然君が上だ。落ち着いて戦えば必ず勝利する」
ヘーシンクは道上のこの一言によって、すっかり落ち着きを取り戻した。
十月二十三日の試合当日、道上は控室に詰めて、ヘーシンクを試合場へ送り出した。そして道上はそのまま控室で待機した。
ヘーシンク、神永両選手が出場するため、無差別は他の選手が敬遠し、結局 九選手しかエントリーしなかった。
これではまともなトーナメントにならない。
そこで考え出されたのが敗者復活戦を加えた組み合わせだった。 その結果、ヘーシンクと神永は二度対決することになった。
ヘーシンクは予選一回戦でイギリスのペサーブリッジと対戦。支え釣り込み腰でなんなく「一本」をとる。
開始わずか七秒のことだった。 次は神永との対決。
予選の試合時間は六分。
開始間もなく、ヘーシンクの支え釣り込み腰に神永が倒れる。
すかさず押さえ込みに入るが、神永懸命に逃れる。
あとは神永反撃の機会もなく、ヘーシンク圧倒的優勢で判定勝ち。
準決勝も勝ってそのままヘーシンクは決勝へ。
神永は敗者復活戦へまわる。
その後神永は三人の外国人選手を破って敗者復活戦を勝ち上がり、決勝でふたたびヘーシンクとあいまみえることになった。
すでにそれまでに、軽量級で中谷雄英(たけひで)、中量級で岡野功、重量級で猪熊功が金メダルを獲得していた。
しかし、パリーでヘーシンクに敗れた日本柔道界にとって、無差別の勝者こそ真の覇者、この階級で負ければ何の意味もないに等しかったのである。
その意味でオリンピックの無差別の勝者こそ、真の世界一と誰もが思っていた。
次回は「オリンピック決勝 日本柔道敗れる」
【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。