「古武士(もののふ) 第38話 パリ郊外の一軒家」
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1964年、道上の家族はパリに到着し、パリ郊外の一軒家に居住する事となった。
普通の家であったが、日本との違いは地下室にボイラーが有ることだろう。
石炭でボイラーの上のタンクのお湯を沸かす。
沸かしたお湯が鉄パイプを通じて各部屋に流れて行き、セントラル・ヒーテイングとして各部屋を暖める。
これが当時フランスでは当たり前のことであった。
しかしパリに到着した道上家族には全てが驚きであった。
愛媛県の6万数千人の漁村から来た家族の目にはすべてが新鮮に映った。
この地下室は風通しがよく、温度・湿度ともに年中安定していて
ワインの保存にはもってこいの場所だった。
道上はボルドーから自動車で運んで来た数十本のワインをその地下室に寝かせ、 パリにいるとき食事中は昼も晩もこのワインを美味しそうに飲んでいた。
1953年に渡仏した道上だったが、当時では非常に珍しく日本とヨーロッパの貿易許可を取得していた。
といっても、もらったに等しい。
日本人では初であり、長きに渡って道上一人だった。
貿易が自由化になったのはつい最近のことである。
日本の自動車メーカーなどが道上の貿易ライセンスを使わせてくれと陳情にやってきた。
道上は無料でこのライセンスを使わせた。
本業以外でお金を取ることを良しとしていなかった道上だった。 中には使用料どころか覚えのない税金が請求されたこともある。
日本の会社が税金を納めずドロンしたのである。
当時はそういった日本人が多かった。
さらに、道上がライセンスを持っていることを知ったボルドーの各ワイナリーが日本に輸出してくれとサンプルを持ってボルドーの
道場にきた。
ボルドーの全てのシャトーは味見したと道上は言っている。
当時3000数社しかなかったのでそれはあり得る事だ。
ましてや道上はけっしてオーバーな事を言う人間ではない。
その何千件ものワインを試飲したのちに選ばれたのがシャトー・ラ・ジョンカードである。
昔ながらの作り手でボルドー市内から自動車で約50分のところにある。
時間のあいた休みの日には喜んで赴いた。
なによりも葡萄酒らしいと言うかこねくり回していなく、樽香でのごまかしのない葡萄酒。
道上はたいそう大事に飲んでいた。
当時は有名な格付けワインも数千円(千円に近い)で買えた。
今の様に1本が数万円、数十万円することは道上にとって信じがたい事だろう。
その大事にしていたワインを保管していたパリの地下室が突然石炭の山になった。
他にも数十本のミネラル・ウォーター、生ハムなどの食料、保管に良いのは分かるが何もここまでの量を、と家族は疑問に思った。
1950年代からアジア・アフリカの植民地に独立の嵐が起こっていた。
道上が渡仏してから 1953年 カンボジア、1954年 ベトナム、1956年 チュニジア、モロッコ、1958年 ギニア、
1960年 ベナン、カメルーン、チャド、コンゴ・
ブラザヴィル、コートジボワール、ガボン、マリ、セネガル、
モーリタニア、ニジェール、トーゴ、中央アフリカ、
マダガスカル、ブルキナファソ 1962年 アルジェリア。
特に1962年のアルジェリア独立において帰国出来なくなったり、また多くの被害をこうむったフランス人がいた。
現地法人などの没収、そして社会主義国になってしまったため国は閉鎖状態になった。
アメリカの反対を押し切って中華人民共和国を一番最初に承認したのもフランス国ドゴール大統領だった。
それらの弊害は多くのフランス人に不満をもたらすようになった。
多くの国の独立によって経済的打撃がフランスを襲い、その不満は後の1968年の5月革命の火種となった。
ドゴール大統領はアルジェリア独立を認めたことによって多くの
極右勢力につけ狙われていた。
道上の弟子にもドゴール大統領を許せないと思っている輩も多かった。
いつどんな事態になるのか、店が閉鎖され、交通マヒ、停電、
いつ食料品がが途絶えるか、そういった不穏な動きがあった。
平和ボケの家族にとって花の都パリ、フアッションの国フランスというイメージで渡仏したので、なかなか理解できない出来事だった。
道上は海外指導に旅立つ前に「何かあったら 家族で日本大使館に逃げ込むように」と言葉を残し、それらの危ない国に旅立った。 家族は自分たちが日本人であり日本国(大使館)に守られている事をはじめて実感した。
当時アルジェリアなど危険とされた国に無報酬で行った。
たとえギャラをもらっても国外に持ち出しが出来なかった。
請われると、またその国の柔道の将来を考えると行かないわけにはいかなかった。
次回は「厳しいフランスでの暮らし」
【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。