2023年9月5日
話のタネ ー 海外旅行と災難
元国連事務次長・赤坂清隆
前略、
旅にケガと災難はつきものといいますが、特に一人での海外旅行中の災難ほど面倒なことはありません。小生、今年の夏、フィンランド、ポーランド、パリ、そしてロンドンに、出張と旅行を兼ねて3週間ほどでかけたのですが、今回ばかりはとんだ災難に出会いました。
もともとは、皆さんに、フィンランドの清々しい古都トゥルクやポーランドの豪華絢爛たる古都クラクフなどの様子をご報告したいと考えていたのですが、わたしの拙い旅行記よりは、私が遭遇したような災難に出会ったら、どう対処できたかをお知らせした方が、皆さんのお役に立つかと思い、今回の話のタネにいたします。
ひどい災難と言っても、命にかかわる程大したことではありません。パリでスリにあって財布を盗まれ無一文になったことと、
ポーランドにスーツケースの到着が遅れたということです。
「何だそんなことか」と思われるかもしれませんが、お聞きください、まずスリの話からまいりましょう。
8月23日のお昼近く、パリのシャルルドゴール空港に着いて、
列車で市内に向かい、途中で地下鉄に乗り替えました。
地下鉄はひどく混んでいて、わたしと一緒に数人の筋肉隆々の
アフリカ系黒人が入ってきて、わたしたちは袖すり合うようにしてドア近くに立ちました。彼らのうちの一人は、わたしの荷物を地下鉄に入れるのを手伝ってくれましたので、「顔はいかついが、気は優しいのだ」と、うかつにも、まったく能天気にも思っておりました。
数駅を過ぎたぐらいで、列車の揺れで黒人の一人が前からわたしにぶつかってきたあと、背後の一人はわたしの荷物が邪魔だというふうな様子を見せて、ぶつぶつ言いながら出ようとしましたので、
それに気を取られました。みんな急いでいる様子で、途中駅で降りてゆきました。その直後のことです。わたしのジーンズのズボンの右前ポケットに入っていたはずの財布が無くなっていることに気がつきました。いくら探しても、ポケットに持っていた財布が見当たりません。全身からすーっと血の気が引いていくのを感じました。「さては、さっきのスリ団にやられたのだ」とわかりましたが、
すでに後の祭りで、列車は動いておりどうすることもかないませんでした。
たかがスリ、されどスリ。その財布には、現金数十万円分の円とユーロ紙幣、いくつかの銀行のカード4枚、海外で使える医療保険証、スイスの無期限運転免許証、更新したばかりの日本の運転免許証、ANAとJALのマイレージカードなど、わたしにとってはスリにだけは盗まれたくない大事なものがごっそりはいっていたのです!胸ポケットに入れていたパスポートは大丈夫でしたが、海外で、
一人で、一文無しのすっからかんになってしまったことの重大性を認識するのに時間はかかりませんでした。
これから先の6日間のパリ滞在と、その後のロンドン出張をどう過ごせばよいのか、一瞬途方に暮れて、目の前が真っ暗になりました。無用心にも、盗難のケースに対応できる海外旅行保険には入っていませんでした。
まだ地下鉄の中です。「さあ、どうしよう?どうするキヨタカ!?」
何はさておき、当面は現金が必要です。
スマホは無事でしたので、数日後にパリにやってくる東京の友人に地下鉄の中から国際電話をして、事情を話して現金の貸与を依頼しました。幸い、快諾を得て、わたしがパリに着いたのは火曜日でしたから、日曜日には現金が確保できる目処がつきました。
ラッキーでした。焦燥と混乱を極める精神状態ながら、ひとつ、
安心できる材料ができました。
さあ、それでも数日間のパリ滞在中どうやって食いつなぐか?
ポケットをまさぐっても、わずか6ユーロ(約千円)ぐらいのコインしかありません。これでは、物価高のパリでは、まともな昼食すら食べられません。
ホテルに着いて、しどろもどろ事情を話したら、受付のアラブ系の若者が、いたく同情してくれて、わたしの口座が残っているフランスの銀行とのアポイントなど、親身になって手伝ってくれました。しかし、カードが盗まれていますから、銀行が現金をすぐ渡してくれるかどうかは定かではありません。彼は、わたしが一文無しの状態と知って、「心配するな、なんとかする」とひそひそ声で、慰めてくれました。
そのあと、彼はわたしを外に誘い出し、ホテルには内緒で、少し自分のお金を貸してくれようとして財布をあけたのですが、持ち合わせの現金は少なく、近くのATMで100ユーロ(約一万六千円)をわざわざおろして、わたしに手渡してくれました。
朝食も取っておらず、焦りの色いっぱいの顔をした、なけなしのわたしには、涙が出るほど有難い、親切なオファーでした。
多分彼にとっては大金だったと思いますが、困っているわたしを助けてやろうという善意が全身にあふれ出ていました。
わたしは、週末にはお返しできると思うからと言いつつ、手を合わせ拝む思いでありがたく頂戴しました。
それからの半日は、てんやわんやの騒ぎです。もうこれ以上はみなさんをお煩わせしないで、かいつまんでお話しますと、
まずフランスの銀行に行って、わたしの口座から現金を引き出すのに四苦八苦しました。しかも、300ユーロが限度だと言い張るのです。それでは足りないとわたしがいくら叫んでみても、ガンとして認めてくれません。それから、クレジットカードは、それぞれの銀行に国際電話をして、カード使用のブロックを依頼しました。
わたしの勤める東京の財団の同僚にも、ビジネス・クレジットカードの停止を電話で依頼しました。彼女は、非常に心配をしてくれて、東京では夜遅くになっていたにもかかわらず、新しい緊急ビジネス・クレジットカードが数日内にパリに届くよう手配をしてくれました。気がついたら、もうパリはもうすっかり夜になっていました。
将来、皆さんにご参考になるのではないかと思われるのは、以下の諸点です。
まず、盗まれたクレジットカードの封鎖の手続きは、銀行やクレジット会社のウエブサイトですぐ見つかります。
また、少し手数料がかかりますが、緊急用の、しかも海外だけで使用可能で、期限付きのクレジットないしはデビットカードの発行が可能と知りました。依頼してから2日後にホテルに届きましたから、素早い手配でした。
パスポートとスマホが本当に役立つことを再認識しました。これらも取られていたら、アウトでした。
財布の中にあるカードの番号は、記録して財布以外の場所に持っていたほうが何かと便利です。
古い人間ですから、こういう時は現金の入手がまず必要だと思い込んでいたのですが、何のことはない、もはや欧州諸国の多くは
キャッシュレスで、クレジットカードこそが一番大事です。
パリの地下鉄も、コインの使用は出来るものの、入り口の窓口では、現金を扱っていません。今回、2ユーロ10セントの地下鉄の切符をコインで買うのに大変苦労しました。
ですから、財布とは別のところに、クレジットカードを保持しておくことが何よりも大事だと思います。今回も、一枚だけでもクレジットカードを財布以外の所に保持していれば、こんな大騒ぎをしなくても済んだと思うと、自分自身の愚かさに腹が立ちます。
次に、パリの警察署には夕方六時ごろに行ったのですが、閉まる直前で、「スリにあった報告をしたい」と言ったら、翌日にしろと言われて、翌日届け出ました。フランスの警察では英語を話す警官もいましたが、事件の顛末記録はフランス語で、すぐにわたしの
スマホに届きました。ここのところは、素早い処理ぶりでした。
パリではスリ犯罪は頻繁で、特に現金を持ち歩く中国人や日本人が狙われているようです。わたしに警官が同情してくれる気配は微塵もありませんでした。わたしも、財布が戻ってくることは、鼻から諦めておりました。公式記録のためだけという気持ちでしたので、割と淡々と対応ができ、情けのかけらも見せない警察官にも腹が立ちませんでした。
不思議なことに、わたしは元外務省職員なのに、今回、日本総領事館に駆け込むという考えは、初めから全く湧きませんでした。
総領事も含めて長い外務省生活の経験から、このようなケースへの対応は大変厄介で難しいということを以前から知っていたからかもしれません。パリの日本大使館のウエブサイトには、盗難にあった際の対応ぶりが詳しく記されているのを後刻見つけました。
やはり、色々と手続きが必要なようですが、ほかに手立てがなければ、日本総領事館に助けを求めて相談するのが一番良いと思われます。
さて、もう一つの災難、パリに行く直前のポーランドのクラクフでのスーツケースの到着遅れも、場合によっては、相当厄介なことになっていたかもしれません。なにせ、シャツ、下着、シューズや土産物、洗面用具なども入ったスーツケースが自分と一緒に空港に届かず、着のみ着のままで、ポーランドの地方の古都で、あれこれ心配しながらホテルで夜を過ごさねばならなかったのですから。
わたしの困惑ぶりをとくとご想像ください。古い、大きなホテルでしたが、歯ブラシ、ひげ剃りなどは置かれていませんでした。
昔、こういうケースで、荷物が結局届かなかった例をいくつか知っていましたから、余計心配でした。「空港で盗まれたのかもしれないな」とも考えました。
しかし、昔と違い、今は航空会社のウエブサイトが、便利です。「今探しています」、「見つかりました」、「以下の便で荷物が届きます」といった情報を、刻々と教えてくれました。ただ、夜が明けるまでは、「探しています」だけだったので、心配は続きました。
翌日無事届きましたので、ひと安心しました。
今回わたしが遭遇したような災難は、皆さんもご経験があるかもしれません。コロナ禍の心配もかなりおさまって、これから海外へ行かれる方も多いと存じます。もうすぐ始まるラグビーのワールドカップ、そして、来年のオリンピック観戦のためにパリに行かれる方も多いと思います。パリは、世界一美しい街ではありますが、
同時に、スリが跋扈(ばっこ)する怖いところでもあります。
わたしの拙い、我ながらお恥ずかしいしだいの失敗談が、少しでも皆さんのお役に立てたら、禍を転じて福となすことができます。
どうぞ、くれぐれもご用心のうえ、お出かけください。(了)