「古武士(もののふ) 第47話 アルカションの高校 」
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1966年当時からフランスの殆どの高等学校には柔道部があった。
柔道は既にフランス第2位の盛んなスポーツになりつつあった。
フランスではテレビ視聴率で言うとサッカーだが、
会員数で言うとテニスその次が柔道。
愚息は道上のような我慢強さがなく、相変わらずしょっちゅう喧嘩をしていた。
日本人が全くいない南西高級避暑地Arcachon(アルカッション)の高校で毎日のように喧嘩をしていた。
彼のいたArcachonは ヨーロッパ1高い砂山が(100m超)海に面していて、その湾には牡蠣が養殖されていた。
そこで育った牡蠣はフランスで消費される83%にのぼっていた。 水温が年間通しておよそ20度のため美味しい牡蠣が育ちやすかった。
愚息の高校では給食にオードブル2種類。ソーセージなどの肉類に野菜、魚。
メインは牛肉の後に魚か鶏肉の2種類。その後エンダイブのサラダ、生野菜とラタテゥイユなどの煮た野菜、それにポテトかバターライス。
デザートは果物と甘い物(ケーキなど)。
その後がキャ フエ(コーヒー)と豪華だった。
それに、何と日本では考えられないが8人掛けの各テーブルに白ワインと赤ワインが1本ずつ付いていた。 まるで高級レストランLysee Grand Air D’Arcachon ( 空気の澄んだアルカッション中高校)。
いわゆる喘(ぜん)息もちの体の弱い生徒の為の学校だったが、
実際にはコネで入った生徒ばかりで体の不自由なものは皆無。
そうだ、フランスはコネ社会だった。
愚息は道上が不当な税金を徴収されていると思い、たくさん食べて取り返そうと。相変わらず馬鹿だった。 必ず端に座り料理は2~3人前を取ってしまうので、いつも喧嘩になっていた。 口癖は「僕のお父さんは沢山税金を払わされているから」だった。
注意する舎監(寄宿舎監督人)や先生と暴力沙汰になる事もしばしば。
しかし愚息に「おじさんはインドシナ戦争に行った事があるが、アジア人は御飯が好きだ」と言って 30センチのステンレス皿に山盛りバターライスのお代わりを持って来てくれる良い 給仕のおじさんもいた。 愚息は敵地で厚い看護を受けた気持ちだった。
いくら食べてもお腹がいっぱいにならない年頃だった。
ボルドーから54キロも離れたArcachonでも フランス人生徒から「俺は道上に空手を習っている」と言うはったりをよく聞いた。 道上は確かに空手八段であったが、本人が教えることはなく、合気道とともに空手は梨元先生はじめ他の講師に任せていた。
道上という名は鈴木や田中の様に日本人に多い名前だと思われていたのだろう。 愚息は決して道上の子だとは言わなかった。馬鹿を自分で自覚していた。
道上の名をあえて汚したくはなかった。
だが柔道部の道場に行った日に柔道講師だけにはばれてしまった。
柔道講師の「先生(道上)の(練習)許可を得てるのか」の問いに愚息は何も言わず道場を後にした。 全生徒を投げ倒した後のことだった。
当時柔道をやっているのは格好良かった。しかも尊敬された。
茶帯(1級)と言うだけで喧嘩を吹っかける者はいなかった。
しかし愚息はいつまでも白帯だった。本人も道上も何の疑問も感じなかった。
愚息が以前下宿していたロベール家主人のジョージ・ロベールさんは長男アランと次男ブルノを週に3回道場に迎えに来ていた。
いつも道場のへりにある取っ手にすがり食い入るように息子たちの練習を見ていた。
彼らの練習後33キロ自動車を運転してDouence まで帰宅していた。
彼らもあまり体が丈夫でないため母親が柔道に目を付け14歳から柔道を習わせた。
アラン・ブルノ両兄弟の「形(かた)」はおそらくこの数十年で最も美しい物であったと愚息は感じていた。
弟のブルノは後に全仏オープントーナメントで無差別級チャンピオンになった。
道上没後、道上道場の後継者として若者の育成を現在も行っている。
当時個人団体とジュニア(18歳以下)シニア(19歳以上)全てボルドー道上道場の独り勝ちであった。
それは柔道だけではなかった。
当時のシャバン・デルマス・ボルドー市長(首相2回、衆議院議長2回)は大変なスポーツ好きで ボルドーはサッカーもラグビーも強かった。
ボルドーはそういった風土が あった。
市長は道上が好きだった。 道上の夏期講習には何度も足を運んだ。
年が近いせいもあって気が合った。
シラック元大統領が裏切らなければシャバン市長は間違いなく大統領になっていた。
シャバン市長がよく「道上先生、何か私に出来る事があったら何なりと仰って下さい」と言っていたが、 道上は彼に何も頼まなかった。
ただ シュバリエ・ド・レジオン・ドヌールとボルドー名誉市民の勲章は甘んじて受けた。
次回は「朝市」
【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。