パレスチナ問題を考える
2023.10.21.
位野花 靖雄
広い土地、乳と蜜が流れる地・・・旧約聖書・出エジプト記で述べられているように、パレスチナの大地は温暖な気候に恵まれ,欠けるものは何もないといわれてきた地域です。
地理上エジプト・メソポタミアの狭間に位置していることから、有史以来多くの民族が通り過ぎるクロスロードでした。モーゼ・キリストが歩き、アレキサンダー大王・十字軍・ナポレオン・アラビアのロレンス・・・幾多の歴史上の人物が足を踏み入れた歴史の絵巻物ともいえる地域です。そして、三大一神教の聖地がある土地でもあります。
今年10月上旬イスラム組織ハマスによるイスラエルへの攻撃で始まった紛争は、イスラエル・パレスチナ双方に過去に例を見ない犠牲者を出しています。今回の衝突の背景・今後の成り行きについては日々報道されていますので、ここでは70年以上間断なく続いてきた紛争の原点は何処にあるのかを考えてみました。
英国が元凶
我々が今日直面しているパレスチナ紛争(パレスチナvsイスラエル)の元凶は、英国の三枚舌にあるといっても過言ではないかと思います。
・1915年、英国は敵対するオスマン帝国を弱体化するため、帝国の支配下にあったアラブ民族に反乱をうながし、見返りに第一次世界大戦後の独立を約束します(映画「アラビアのロレンス」でご存じの方も多いと思います)。
・・・ フセイン=マクマホン協定
・しかしアラブに独立を約束しながら、翌年1916年英国・フランス間で大戦後の中東を分割・統治する国境を密かに取り決めます。
・・・ サイクス=ピコ協定
:NHK
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・1917年、第一次世界大戦で財政逼迫した英国を支えたユダヤ資本家ロスチャイルドの要請で、ユダヤ人のパレスチナへの帰還を認める宣言を行います。
・・・ バルフォア宣言
:バルフォア宣言を報道するザ・タイムズ紙・1917年年11月
この矛盾する協定・宣言が、今日のパレスチナ紛争の根源・始まりだと言えます。
第一次大戦後、英仏間で民族・部族の存在を無視した国境が決められ、パレスチナについては、英国が委任統治することになります。
ユダヤ人排斥とシオニズム
紀元70年パレスチナから世界各地へ離散することを余儀なくさせられたユダヤ人は、ロシア・西欧など移住先各地でも、背教者として差別・迫害を受け続けます。
19世紀末以降、ロシア系ユダヤ人のパレスチナへの移住が始まりましたが、その背景には、当時の帝政ロシアが暴徒を組織してユダヤ人を襲撃させるなど、ユダヤ人差別政策を強化したことが背景にあります。
西欧でも長年にわたり排斥・差別されてきたユダヤ人の間で、祖国パレスチナに帰ろうとする機運(シオニズム運動)が高まっていましたが、前述のバルフォア宣言が出されたことで、帰郷・建国運動が一気に高揚され、パレスチナへの移住者が急増します。
しかし、そこには先住のパレスチナ人がいました。19世紀初頭のパレスチナに定住していたユダヤ人は、総人口の僅か5%程度でした。アラブ人もユダヤ人も共存して平和に生活していましたが、急増するユダヤ人移住者との軋轢が生まれ始めます。
無責任な英国と無能な国連
パレスチナを委任統治することになった英国ですが、パレスチナ・ユダヤ間の対立は日々激化の一途をたどり、手を焼いた英国は1947年問題を国連に持ち込みます。
国連総会は、紛争解決策として以下を採択します:
・パレスチナをユダヤ国家とアラブ国家に分割する
・両国は経済連合を形成する
・エルサレムは国連信託統治理事会が行政を行う 2/5
イスラエルは賛成しましたが、アラブ側は分割の仕方が明らかにユダヤ側に有利であるとして、反対・拒否します。分割決議案は、パレスチナ全面積の57%をユダヤ国家に、43%をアラブ国家に割り当てたのに対し、当時のパレスチナ総人口197万のうち、ユダヤ人は3分の1以下の61万人にしかすぎず、またユダヤ人は所有していた土地はパレスチナ全面積の6%にしかすぎなかった。明らかにユダヤ側に有利な分割案だったといえます。
問題解決の見通しもたたぬうちに、無責任にも英国は一方的にパレスチナからの撤退を宣言します。英国が撤退を宣言した翌日、それを待っていたかの如くイスラエルは建国を宣言し、これを認めないアラブ側と第一次中東戦争(1948年)の幕は切って降ろされ、今日まで70年以上の紛争が続くことになったのです。
イスラエルは1949年国連加盟を申請しましたが、各国は加盟条件として国連の諸決議を尊重するように要求。これに対し、イスラエルは「いかなる問題についても、総会・
安保理の決議に反するような政策はとらない」と表明しましたが、エルサレムを首都とするなど、国連決議を無視し続けてきました。
参考資料:
:2004.4.14.東京新聞
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