「古武士(もののふ) 第51話 パリでの食事」
________________________________________
パリでの食生活はボルドーと違った。
パリには道上のなじみの食材店は無い。
当時パリの人達は食を重視しなかった。
昼は簡単にキャフェですませ、夜はスープにサラダだけと言う人達が多かった。
今のように三つ星レストランがパリに集中している時代ではなかった。 食は地方に有り。
地方ではないがボルドーのサンジャン駅の裏には牛肉解体場があり、フランスの牛肉の半分以上が捌かれフランス中に供給されていた。フランスでは地方の方が食生活は豊かだった。
ボルドーが華々しい時代を経た後、リヨンが頭角を現し、
最近ではヌーベルキュイジーヌはパリが本場となった。
農業が国内総生産の半分を占めた時代から工業のリヨンへ、
そして次第に金融のパリへと食の豊かさが移って行った。
しかし未だに地方には美味しいものが、またレストランが豊富である。これはフランスの食生活の伝統を表わすものだ。
地域に根付いた美味しい料理と食材がある。
1964年に家族が来仏した当初は道上がつくっていた事もあったが、次第に次女志摩子が作るようになった。あわせて買い出しも彼女の役目となった。
女房小枝は酢の物や煮つけといった和食しか作らないため、
年よりじみた料理に思えた。
道上も愚息も志摩子の若々しい料理の方が食べやすかった。
道上がいる時はいつも彼女が作っていた。肉を焼く時だけは道上本人。後片付けも最初は小枝と志摩子、後に愚息の役目になった。
道上ほど几帳面だと自分の台所は他の者に触られたくはない。
したがって普段使ってない台所には自分も立たない。
この事を愚息は痛いほどわかっていた。
よく招待された時「お手伝いしましょうか」と聞くと
「助かりますお願いできますか」と言う人と、 「結構です」と言う人がいる。道上は後者だった。
道上は小枝の食事では物足りなかった。
ちまちました懐石風の料理は道上の好みではなかった。
道上は日本の食事は貧乏人の食べ物だと言っていた。
確かに強靭な身体を支える食べ物では無い。
当時日本での家庭料理は貧しかった。
それに比べフランスの食卓は豪勢だった。
道上の大好きな中華も最近のように小皿で少しづつ出てくると道上は嫌がった。 道上の外食は招待されない限り必ず中華だった。
中華料理は華やかだ。
道上の良き時代が彷彿とされると言う事もあるが、
やはり中華料理の華やかさ、そして料理自体が道上に合っていたのだろう。
当時料理と言えば世界での評価は中華料理が1番で、2番目がフランス料理だった。今でも食通は同じ事を言うだろう。
何しろフランス料理は100種類あると言われているが、
中華料理は400種類以上と言われている。
豚一つとってもフランス、中国は捨てるところがないと言われるほど、その殆どがあらゆる方法で料理される。
しかも中国は生き物はなんでも料理する。
ところで、フランスの中華料理屋にはろくな紹興酒が置いていない。あまり出ないからだ。では、何を飲むのか。
中国人も含め皆ワインを飲む。中華料理にはワインが合う。
特にボルドーワインが。
戦前の上海は中国の83%の経済を担っていた。
上海人は着道楽と言われていたが 実は結構な食道楽でもあった。
道上は飲茶の様なメリケン粉臭いちまちましたものよりはしっかりした大皿の中華料理の方が好きだった。
中華料理はなんでも好きだが、
あえて言えば広東料理が一番好きだったかもしれない。
身体が要求していたのだろう。
道上50代。まだ心も体も若かった。
次回は「食卓での会話」 です。
【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。