2023年11月3日
「凱風快晴 ときどき曇り」
内田樹(うちだ たつる)思想家
原爆と歴史修正
バンコク在住の日本人中高生を対象としたオンライン授業を始めて2年以上になる。「日本の常識」がうまく通じない子どもたちに向かって、いささか込み入った話を噛んで含めるように説明するのである。
私はこういう仕事が好きである。ふつう学者たちは非専門家を相手に話したり書いたりすることを「啓蒙」と称して、
一段下に見る風があるが、私はその判断に与さない。
「非専門家に自分の研究の意味を手際よく説明できること」が学問の発展にとって本質的なことだとある時期から思うようになったからである。
どのような分野の専門家であっても、単独でできることには限りがある。
ほとんどの仕事は他の分野の専門家たちと協働しなければ果たせない。
その場合、「自分には何ができて、何ができないか」を簡潔に伝えることが必要になる。
前に感染症医の岩田健太郎神戸大教授に聞いた話だけれど、アフリカで感染症の医療支援に駆けつけた時にまず「あなたは何ができるか?」を訊かれたそうである。
一人ひとりが、私は感染症医療システムの設計ができる、
私は病棟が建てられる、私は電気工事ができる、私は料理を作れる・・・・・と申告して、それでチームが編成される。そういうものだろうと思う。
「自分ができることは何か」を、「それができない人」に伝えることができなければ、コラボレーションはできない。
専門家同士の間でしか通じない専門用語の操作にいくら
熟達しても、現場では役に立たない。
私が子どもたち相手に話すことを好むのは、自分の専門知がどれくらい「現場」で通じるかを自己点検できるからである。子どもたちはわずかな社会的経験しか積んでいない。
そのせいで想像以上にイデオロギッシュである。
偏見を解除し開放的に
親からか、教師からか、あるいはYouTubeからか、どこかで吹き込まれた「偏見」にかたくなにしがみつく子どもがいる。その思い込みを解除して、オープンマインデッドな状態にするのが、私の仕事である。
でも、頭ごなしに「君たちは洗脳されている」と言っても通じない。そうではなくて、話を聴いているうちに「偏見が解除されるプロセスは気持ちがよい」ということを、子どもたちに実感してもらえばよいのである。
小さな檻の中に縮こまっているよりも、広々とした風景を
見渡して、胸いっぱいに涼気を吸い込むほうが楽しいに
決まっている。
今回のバンコク・オンラインのテーマは「核兵器の表象」であった。
アメリカ人が核兵器をどのようなものとして認識しているのかについて映画の話から始めた。
映画「オッペンハイマー」は原爆開発の物語だが、作中に広島・長崎への原爆投下シーンがないことがネットで話題になり、日本での公開のめどが立っていない。
同じクリストファー・ノーラン監督の『ダークサイト』ではゴッサムシティに設置された核爆弾をバットマンが
6マイル離れた「安全な海上」に投棄して事なきを得る。
スティーブン・スピルバーグ監督の『インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカル王国』では、うっかりネバダの原爆実験場に紛れ込んでしまったジョーンズ博士はカウントダウンが始まってからあわててモデルハウスの冷蔵庫に潜り込んで、何度か転がって多少の打撲傷だけで次の冒険に出かける。ちょっと待ってくれ、冷蔵庫ごとジョーンズ博士は消滅しているんじゃないのかと私たちは思うけれど、
アメリカの観客は核兵器というものを「ちょっと大きめの爆弾」という程度のものだと思っているらしい。
世界最多の核兵器保持国の国民が核兵器についてこれほど不正確情報しか持っていないというのは、単なる無知ではなく、ある種の「症状」と見立ててよいだろう。
歴史の暗部を隠蔽しても抑圧された記憶はいずれ必ず自罰的な
「症状」として回帰する
おのれの罪責感を希釈
アメリカ人はなぜ原爆をこれほど「しょぼく」表象するのか?
私の仮説は「罪責感ゆえ」というものである。広島・長崎への原爆投下後、その惨状を伝え聞いた米国民たちは、
クリスチャンとリベラル派を中心に、原爆投下の政治判断に強く抗議した。
敗戦必至の日本に原爆を投下して20万人以上の市民を
殺す必要が果たしてあったのか、と。
実際、1946年の東京裁判の冒頭で、日本側の弁護人だったブレイクニー少佐は「原爆を投下した者、計画した者、
その実行を命じた者もまた殺人者ではないか」と述べて、
米国には「平和に対する罪」を裁く権利はないとして
トルーマン大統領の非道を批判した。
46年時点では、「原爆は投下すべきではなかった」ということを米国軍人でさえ公然と口にできたのである、なんと。
しかし、それが一変する。
47年にヘンリー・スティムソン元陸軍長官は
「原爆を投下せず、通常兵器で戦闘を続けていれば、さらに100万人の米兵が日本占領のために失われたはずである。原爆は100万人の生命を救ったのだ」という声明を
発表したからである。
これはいかなる統計的根拠もない出まかせだったが、
米国民はこれに飛びついた。
以後、「原爆投下に疚しさを覚える必要はない」ということが、米国の公式見解になった。
現在でも、それは変わらない。でも、スティムソン声明に
「飛びついた」市民たちも、内心ではそれが「嘘」だということはわかっていたはずである。
だから、それからのち、「原爆なんてただの大きな爆弾に過ぎない」という「物語」を繰り返し映画的に表象することで、おのれの罪責感を希釈してきたのだと思う。
というのが、私の第一の仮説である。「抑圧されたものは症状として回帰する」
というフロイトの洞見は正しい。そして、アメリカ人が発症した核兵器をめぐる
「症状」はそれ一つだけではない。
「自虐物語」を生産し消費
アメリカ人の原爆投下についての罪責感を最もストレートに表したのは、意外かもしれないが、SF(サイエンス・フィクション)である。1950年代から60年代にかけて
アメリカでは、「核戦争でアメリカが滅びる」というSF映画が大量に制作された。
『渚にて』、『博士の異常な愛情』、『魚が出てきた日』、
『猿の惑星』・・・・・数え上げたら切りがない。
それ以後も『マッドマックス』、『バイオハザード』など、「文明が崩壊した後の荒廃した世界」を舞台にした
「ディストピアもの」は今も大量に作られ続けている。
SFは欧州や日本でも流行したが、自国が核兵器や生物兵器で壊滅するという「自虐の物語」をこれだけ大量に生産し、消費している国はアメリカ以外にはない。
つまり、アメリカ人は一方では映画的表象を通じて繰り返し「核兵器なんかただの大きな爆弾だ」という核兵器を侮る
態度を演じ、その一方で、核兵器で滅びて、もうぺんぺん草も生えなくなった焦土アメリカの惨状も克明に描くことに異様な情熱を発揮している。
繰り返し言うが、こんな「変なこと」をしている国は世界にアメリカしかない。文句を言う人はいないと思う。
私があらゆる歴史修正にたいして批判的なのは、自国の歴史の暗部を隠蔽することは、利よりも害が多いと思うからである。いくら厳重に梱包しても押し入れに隠した死体から
は腐臭が発し続け、いずれその部屋を住むことができないほど不潔で不快なものにしてしまう。
歴史修正とは、そのような愚かなふるまいのことである。
自分が犯した非行についての記憶を隠蔽することで、人間は一時的には心の平安を得ることができる。
だが、抑圧された記憶はいずれ必ず自罰的な「症状」として回帰してくる。
というようなことをバンコクの中高生たちに話したのだが、わかってくれただろうか。