「古武士(もののふ)第58話家族の団欒 日本人 編。」
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家族団欒での話題は八幡浜から日本人へ。
1960年代には日本人観光客も増えてきた。
珍しくパリで日本人と出くわす事もあった。海外渡航の自由化がやって来た。
まだ100ドル(36,000円)しか持ち出せなかったが、旅行者は腹巻に何十万と持って渡航した。
闇ドルに変えフランスに到着後フランに変えると30%ほど手数料で無くなってしまっていた。
まだ海外ツアーが無く殆どが個人旅行であった。
日本では海外旅行の経験がないのにある事ない事書いた人達の本を販売していた。
その本を読んで間違った先入観で旅行していた日本人が多かった。
怖いのはパリでは年間10万人の人間が失踪していたことなどを知らないということだ。
中には日本人もいて北アフリカへ行くとまだ人身売買が盛んにおこなわれていた。
道上は家族に気を付けろとの注意をたびたびしていた。
道上家には「旅券をとられた人を何日か泊めてやってくれないか」との電話が大使館から何度もかかってくる。
仕方なく泊めてあげると何日も居座る。
中には1年以上いたものもいる。当然ただ飯だが日本へ帰国後も手紙一つよこさない。
日本人の印象は我々の中でも悪くなる一方だった。
レストランでは1人か2人で食事をする分にはおとなしく、上目づかいできょろきょろ周りを見ながら食べている。
これが4~5人で食べるとなるとやたらと大声でしゃべり、笑い、周りに迷惑だ。 東洋人には厳しい目で見る一方、白人には媚びる。
当時パリで見かける日本人は、男性の方が多かった。
しょぼくれた格好でカメラを2台肩からぶら下げ、膝を曲げて頭を振りながら歩いていた。
そのような姿を道上は、情けないという表情で見ていた。
外出の際も女房の着物(女房には着物を要求した)が婆くさいと「残って居なさい」と言われてしまう。
身だしなみや風貌にはかなり気を使っていた。
明治時代にヨーロッパへやって来た侍たちは果たしてどうだったか。
きっと威風堂々としていたはずだ。
愚息も旗を持った農協の団体旅行客に遭遇すると困っていた。
天下のシャンゼリゼ通りに茣蓙(ござ)を敷き座っている姿を見たフランス人同級生から尋ねられる。
「あれは日本人ですか?」
「いやべトナム人だ。」
当時フランスに多かった東洋人と言えば中国人とベトナム人だった。
家族もフランス人にはよく中国人と間違えられた。
1960年代の後半になってやっと
「日本人ですか?ベトナム人ですか?」
という聞きかたをされるようになった。
いずれにせよ日本人であることを否応無しに意識させられた。
そういった時代だった。
フランスはまだ豊かだった。
体育の先生がフランスの植民地(特にアフリカ諸国)に転勤になると、彼の銀行口座には毎月3倍の給料が振り込まれ、現地では医者も住まいも無料で利用できた。
しかも当時の医者や学校の先生の給料はもともと高く、悠々自適の暮らしだった。
現地で柔道場を開くと、生徒からの月謝だけで道上の3倍ほどの年収になっていた。
ちなみに今はフランスの学校の先生は食べていけないくらい薄給だ。
実は日本の企業でも海外へ転勤になると日本での3倍から4倍の給料が支給された。
ただフランスなどヨーロッパ先進国では物価も日本の3倍から4倍だった。
道上の日本人批判は
「何故あんなにだらしのない風貌なのだ。日本人としてもっと堂々としてもらいたい。」
という思いからだった。当時の日本人は海外へ行っても外国人が自分たちの事をどのように見ているかなど考える人はいなかった。
国内旅行の延長のつもりで国が違えばマナーも違うということも知らなかった。
しかも旅の恥はかき捨てのつもりだった。
日本に帰ると真逆の事を話していたのだろう。
道上の日本人像は誇り高くあるべきだと言うものだ。
「欧米人は100年前まで食事は手づかみで食べていた。東洋では箸というものが数千年も前から使われている。日本人はもっと誇りを持たなければいけない。」
小さなことだが、道上は相手が握りこぶしで咳払いした手で
握手を求められようものなら すかさずノーと言って拒んだ。
「日本人はもっとイエス・ノーをはっきり言わなければいけない」
咳払いはハンカチをあてるべきであると。
謙虚な人間であったが礼節を人一倍重んじる道上の前ではフランス人も緊張した。
買い物へ行っても店員がいい加減な事を言うと道上に叱られていた。
とにかく存在感のある人間だった。
日本人はもっと世界に通用する人間になってほしいとの願いからだったが、
愚息には疲れるおっさんだった。
叱られる時にいつも「君はそんな事では日本では生きていけない。
日本では通用しない」と言われる。
このおっさん日本を知らない、と愚息は心でつぶやいた。
道上の真意についていける者はまだ少なかった。
【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。