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        「古武士(もののふ) 69話 道上の日本一時帰国」

        ________________________________________

        道上は正力松太郎氏の招待で日本へ一時帰国して春の武道館での

        全日本選手権大会を観戦することになった。

        正力松太郎氏は九段下にある日本武道館設立に非常に尽力した

        人物である。道上に会いたがっていた。

         

        それまでちょこちょこ日本へ一時帰国していた道上だが、武道館の全日本選手権後フランスへ帰ると多くの弟子から

        「大会は如何でしたか?」と質問攻めになる。

        それゆえ毎年全日本に合わせ桜の咲くころに帰国することになった。

        1970~1980年代にはまだ数年に1度のペースだったが1990年代になってからは毎年帰って来るようになった。

        1970年代後半には新橋第一ホテルに、1980年代前半には

        赤坂東急ホテルに宿泊していたが、 それ以降は大宮の次女清水志摩子の家に泊まるようになる。

        最初は2週間ほどの滞在だったが1990年代からは徐々に1か月が2か月へと期間が延びて行くようになっていった。

         

        招待されたものの大会を見ている道上は決して楽しそうではなかった。

        何を思っていたのだろうか。

        日本柔道の退廃にあきれていたのだろうか?

        仕方なく観戦しているようだった。

        講道館体制に批判的な人たちの苦心の末実現している観戦である。

         

        1991年4月29日に開催された大会では決勝戦勝利者の取った一本を見てあれは柔道では無いとあきれていた。

        1994年4月29日の大会では決勝戦で吉田秀彦は相手の関節技を受け負傷、最後は判定負けした。

         

        道上はポロッと漏らした。「あれは反則技だ。」

        愚息が「お父さんどうして反則なのですか」と聞くと、 身振りで「相手の左腕肘関節を下から決めるのはほどけるが上から決めると外せないため反則なんだ」と説明した。

         

        愚息の前を決勝戦の副審が道上に一礼して通りすぎようとした時、 すかさず愚息は「あれは反則では無いのですか」と尋ねたが 「いや反則では無い」という返事だった。

        決勝戦の副審を務めた者が柔道を知らないのである。

        ましてや彼らが教えた海外審判の判定に対し誤審云々と言って抗議するのはもってのほかだと愚息は思った。

         

        道上がさらにポロッと漏らした言葉は吉田秀彦を評して「彼は昔の柔道に近い柔道をやっている」 滅多に言わない言葉だけに愚息の心に残った。

         

        愚息が周りを見渡すと1964年東京オリンピックの金メダリスト、アントン・ヘーシンクが彼の妻と座っていた。

        道上がいるのを気が付いているはずだが挨拶にも来ない。

        彼の唯一の恩師に対して。 道上も彼を無視している。

        愚息は隣に座っていたスペイン柔道連盟の副会長に訊ねた。

        ヘーシンクが今日有るのも道上のおかげのはず。

        「何故挨拶に来ないんだ」と。

        「来れないんだよ!道上先生が怖くて」 

        「何故?」

        「1964年のオリンピック以降彼は殆ど柔道をやっていない。

        ターザンの映画に出たりプロレスをやったり、恩師の道上先生が恐ろしいはずだ。」

        「何故そんな馬鹿げた事をやったの?」

        「人間有名になるとそれを維持したいんだ」

         

        一方講道館は1964年の東京オリンピックであまりにも衝撃的な負け方をしたため、ヘーシンクを取り込み、 実は講道館がヘーシンクを見出したのだと世間に思わせたかった。

        非常に残念な事だ。

        なぜなら全世界は道上だと言う事を知っていた。

        柔道をあまり知らなかった無名のヘーシンクに指導し、世界チャンピオンの有名人にしたのは道上だと言う事を知らない者はいなかった。

         

        愚息は何を思ったのか、つかつかとヘーシンクの所へ行き、道上があそこに座っていると手のひらをさして伝えた。

        愚息はヘーシンクの出方を見たかった。

        ヘーシンクは困り果てた顔をし道上の方へ向かった。

        細君は事情を知らないのか「道上先生がいらっしゃるの!嬉しい!」と言って一緒に向かった。

        ヘーシンクは道上に一礼するなり「先生済みません、ご無沙汰しております」 と言いながらやはり困ったような顔をしていた。

        このころ彼はオランダ農林水産省の役員をしながら後にIOC(国際オリンピック委員会委員)のメンバーとなっていた。

        青と白の柔道着制にしたのは彼である。

        しかも自画自賛というか、後に自分で十段をとった人物である。

        生涯を柔道発展のため寄与した道上九段を追い越すことを平気でやってのけた。

        愚息は道上に聞いた。

        「お父さん、柔道着の色を(白と青に)変える事を講道館は反対していますがお父さんは如何思いますか?」

        「いいじゃないか。柔道着はその昔半袖半ズボン状態のものが進化したのだ」

        道上はその後のヘーシンクの生き方には何の関心も持っていなかった。

        オランダ柔道発展の為、貧しい生い立ちの彼を一躍ヒーローにした。

        道上自身はそれに対する何の見返りも望んでいない。

        1964年以降の彼にも関心が無い。

        来るものは拒まず、去る者を追わず。

        そして多くの弟子が道上と共に柔道発展、日本文化の啓蒙にあたった。

         

        道上道場・空手道師範 梨元さんからの一言

        先生が喝破されていた「人は変わる」

        だから素晴らしさはそのときにしかない・・・ という現実。

        (これはソクラテスが何故書かなかったのかと同じ哲学です)

        かつての栄光や実績に拘泥しない「潔さ」は凡人には計り知れない深さがあります。 巌流島の決闘のあとの武蔵のような感慨でしょうか。

        梨元

         

         

         

         

         

         

         

         

         

        【 道上 雄峰 】

        幼年時代フランス・ボルドーで育つ。

        当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。

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