「古武士(もののふ) 第76話 道上の軌跡を本に」
________________________________________
道上の軌跡を後世に残したいという愚息の思いは止まらなかった。
世界的権威のモディスト(帽子のクリエイター)平田昭夫先生に頼んで何とか道上の生涯を本にしてもらえないだろうかと頼み込む。 平田先生は当時文藝春秋の社長であった田中健吾さんの友人だった。 その田中さんが文藝春秋編集長の白川さんを紹介してくれる。白川さんは非常に頭の切れる人だった。
そしてその白川さんが連れてきたのが真神さんである。
彼はすでにノン・フイクションで色々な賞をとっていた売れっ子
作家であった。
愚息は早速彼を連れてボルドーへ飛んだ。
会った途端、道上は恐ろしい形相で愚息を睨みつける。
何て馬鹿な事をやっているんだと言わんばかりに。
愚息はただただ済みませんと謝るばかり。
真神さんに向かっては「私は宣伝は嫌いだ」と。
道上の言う事も分からんでは無い。
自己宣伝する人の大半は偽物で、それを生業にしている人が多い。
しかし愚息はそうは思っていない。
歴史は作られる。史実と真実とは異なる。
しかし作られた史実だけでは世の為にならないと思っていた。
愚息は31歳の時フランス語で書かれたタロットカードの小冊子を日本語に翻訳した。
その訳を読みたいと頼まれたので、貸したが、借りた人物が勝手に自分の名前でムーと言う雑誌に載せた。
愚息はフランス語も日本語も中途半端なので何日も夜を徹して訳した。それをすっかり盗まれた。
しかもパクった相手は学校の先生でペンネームまで持っていた。
彼はそれで名声も多少のお金も手にしただろう。
当時は我慢ならなかったが、今にして思えば訳する事によって得た知識は自分にあり、揺るぐ事では無いと思っている。
しかも翻訳したものが世に出たことで、少しでも皆さんのお役に立てたならばそれで満足だ。
しかし当時そうは思えなかった。しかも妙な正義感も持っていた。
道上は日本の若者の将来を憂いていた。
1980年代のある日、官僚の天皇とまで言われた人物と道上の会話。
「日本はもう駄目だ。一旦潰れるしかない」 二人の考えに愚息の心は沈んだ。
何としてでも道上の軌跡を残したい、と愚息は思っていた。
しかし言うに及ばず大変だった。
一例ではあるが、
ある日の朝9時、ボルドーにある道上のマンションの玄関で待ち合わせをした。
愚息達が泊まっていたホテル・ ビューデイガラは 当時ボルドー1の高級ホテルだった。道上の家は、そのホテルから歩いて15分。
しかし同じホテルに泊まっていた作家先生が待てど暮らせど降りて来ない。
ロビーで8時の待ち合わせが9時5分前になっても来ない。
愚息は慌てて道上に電話するが、道上は電話に出ない。
道上の部屋は4階建ての最上階、膝の軟骨がすり減り歩くと音がするが、 エレベーターの無い建物である。おそらく10分前には玄関で待っていたのだろう。
愚息は慌てて作家の部屋をノックする。彼からは「今行くから待って」の返事。
結局30分遅れて道上のマンションへ着く。愚息は道上にこっぴどく叱られた。
当然の事である。 作家をフランスまで連れてきたのは愚息である。
その時、愚息は馬鹿な事を言ってしまった。
「遅れる電話をしましたが、電話に お出にならなくて」
強い口調で、「嘘を付くな!電話はしていない」 愚息は黙ってしまった。
そうだ電話は相手が出て初めて電話をしたと言える。
愚息が電話をしたと言うのは言い訳でしかなかった。
後、道上の弟子ブルノ・ロベールさんにこんなことを聞いた。
「我々先生の所へお迎えに上がる時は遅くとも15分前には着いてますよ。」
角を曲がったところで隠れて待機しています。
そして5分前に先生の部屋のベルを鳴らします。
すると先生は降りて来て『お待ちになりましたか』
『いいえ、今来たばかりです』と答えます。これが日常です。」
道上のマンションは角部屋。
寝室、応接間のある部屋は玄関に面しているが、台所から覗くと角を曲がった所まで丸見えであった。
道上は生徒が何時に来ていたかを知っていた。
これらのボルドーの日常とは大きく異なり 作家に愚息は大変苦労した。
世の中思い通りに行く事は少ない。
それでも結果オーライだと愚息は思っていた。
道上は作家にはまったく叱るでも無く、しかも丁重だった。
ただ作家の質問には積極的には答えなかった。
作家は10年かかっても本を書き上げる事が出来なかった。
おそらく道上を理解できなかったのだろう。
後にインタビューをテープにとりたいと言う申し出に、そのテープを愚息に渡すと言う条件で道上は受けた。
愚息はそのテープを聴きこのメルマガ30話までの参考にした。
本が出版されたのは道上が亡くなって数か月後の事だった。
有能な編集長が加筆していた。
【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。