古武士(もののふ) 第78話
昇段試験
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フランスの柔道界の中で有段者会College National Des Ceintures Noires とFFJDA (フランス柔道協会)が合併し フランスの柔道協会は一つとなった。
そして柔道教師にも国家の認定制度が設けられた。
道上は唯一の昇段審査員ではなくなり、昇段審査員の数が11人となった。
ある日昇段審議で突然
「先生、外に出ていてもらえませんでしょうか?」と言われ、道上は廊下に出た。
「戻って来て頂けませんでしょうか?」の言葉に道上が会議室に戻ると、先生、多数決で先生に10段になって頂くことが決定しました。」
驚いた道上は「何人が賛成したんだ」
「先生賛成8人、反対1人、棄権者1人です」
道上は「全員一致でなければ10段は要らない。」と答えた。
反対した1人は講道館寄りの人間だった。
棄権者はFFJDAの者だった。
おそらく道上は全員一致でも断っただろう。
後にたかが10段されど10段と言った者が多かった。
ただ彼らは愚息の様に人爵と天爵の違いが分からない人達なのだろう。
振り返ると道上は40歳で渡仏した時は既に7段だった。
それからは多くの者から8段いや10段になって貰いたい、と要請があったがすべて断り続けた。
道上曰く、「段とは柔道発展のための便法である」と。
しかしフランスのスポーツ大臣直々の要請で8段飛び越しの9段を24年ぶりの昇段として1977年に受けた。 道上にとって段とは柔道発展の為の便利な一つの道具であって、そのために柔道をやるのではない。
柔道は己の精神を鍛えるためにあると言っていた。
昇段審査員と言っても道上にとっては、皆子供の様な者達。
誰もが道上が渡仏した当時は初段になるかならないかの者達であった。
中にはヘーシンクの様に、初段になったばかりの者が道上の手で6段にまで上ったものの、 東京オリンピック以降はほとんど柔道をやることがなかったにもかかわらず、数十年後、自分自身に10段を与えた。
一方、世界チャンピオン時代のヘーシンクが一度も勝てなかったボルドーのドゥ・ソールは未だに3段である。
しかも彼は80過ぎてまだ柔道をやっていた。
同様に、現道上道場後継者 ブルノ・ロベールは無差別級全仏オープン・トーナメントで優勝していながらいまだに3段。
(ブルノほど強くなく柔道もあまり知らない者が8段になっている現実もある) 3段の彼らは「8段を貰っても良いが道上先生が
16段もらって頂けるなら。」でなければ段などいらないと言っていた。
柔道で段をひけらかす者達と、本当に柔道を愛し育成して行く者たちの差である。
道上は柔道を創っていく側の人間であった。
一方、巷でささやかれていたのは 「道上先生が9段なので 誰も8段を超えられない。」
何をか言わんやである。
道上は段を拒む数人は別として、実力有る者には積極的に段を出し励ましたがっていた。
ただ「先生10段になって下さい」と言った者達はその類いでは無い。
そう言えば昔日本の政治家はやたらと段をほしがり講道館に媚を売っていた。
そういった輩のなんと多かったことか。
これでは日本の文化、武士道が続くはずがない。
道上がその気になれば、10段でも15段でも、映画化でも、出版でも簡単に具現したであろう。
テレビも多い時は毎週、1960年代70年代には少なくとも毎月ニュースに登場していた。
地方新聞には ほぼ毎週道上の事が書かれていた。
「ボルドー」というガイドブックには道上伯はヨーロッパで一番有名な日本人と書かれた。
違う次元で生きている道上に、愚息の取った多くの行動は情けないほど残念であった。
「先生、明日旅立ちます。その前に先生にお別れと感謝をお伝えしたくて。」と言って国家の為に大空に散って行った弟子達、いや特攻隊達。
遠くから電車で乗り継ぎ朝5時の挨拶だった。
愛する友人チン・コウタク(上海市長)の様に漢奸と言われ絞首刑になった人達。
道上の人生は波乱万丈だった。
道上を歴史に残そうだのの戯言は、そして愚息には、ほとほとあきれていたのだろう。
人の生き方にとやかくする暇が有ったら自分の道をしっかり生きろ、だった。
【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。