2024年10月24日
話のタネ
ハッピー・バースデー国連
元国連事務次長・赤坂清隆
前略、
ようやく秋らしい気候になりつつありますが、さあこれから、国際情勢は飛び切りエキサイティングな時期を迎えます。皆さん、心の準備はいいですか?
まずは、皮切りに、日本の総選挙が今週末にあります。自民・公明の連立与党が過半数を保持できるでしょうか?
そして、11月5日(火)の米国大統領選挙。ハリスかトランプか、はらはらしますね。
そして、ひょっとしてその時期までに、イスラエルがイランに対する大規模な報復攻撃を行うのかどうか?
さらに、ロシアとウクライナとの戦争は、来年2月で3年になるわけですが、ウクライナのピンチ(crunch) が取りざたされるようになっており、停戦の可能性もありそうな気がします。
北朝鮮も何をするのでしょうか、核実験?中国は?
このような「激動の国際情勢の中で、国連は何をしているのか?」というテーマで、先ごろ、青山学院大学にお招きいただいて、講義をしてまいりました。同大学には海外からの留学生も多く、それだけに、講義の最中も積極的な質問がありました。その際使いましたパワーポイントを添付いたします。英語での講義でしたので、資料も英語なので恐縮ですが、もしいくつかのスライドが皆さんのお役に立つようであれば、どうぞご自由にお使いください。
「国連は、安保理がロシアやアメリカの拒否権で機能せず、役立たずだ」と思っている人も多いかもしれません。学生さんの意見も聞きましたが、国連に好意的な人は少数でした。しかし、国連イコール安保理ではありません。グテレス国連事務総長、国連総会、国連の多くの人道支援機関(ユニセフやWFP、UNHCR, UNFPAなど)、国際司法裁判所、国際刑事裁判所なども、国連に関係するプレイヤーです。国連の評価は、このような全体像をつかんだ上で行っていただく必要があります。
国連は、1945年の10月24日に設立されました。危う忘れるところでしたが、今日が国連の79歳の誕生日です。
国連は、当初の設立の際の大目的を越えて、その能力に余るたくさんの課題を抱えすぎているという声もあります(スライド28)。確かに、当初は、第一次、第二次世界大戦という言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争を将来二度と繰り返さないようにしようという、平和と安全の維持が最大の目的でした。その後、環境問題など様々な問題が国連に持ち込まれて、最近では、日本の夫婦別称制度問題まで国連の委員会が審査するに至っています。ウクライナ戦争、ガザ戦争がこんなにも長く続いているのに、国連は何をしているの?といいたくなるのは当然かもしれません。ルモンド紙は、ウクライナ戦争が国連の無力さをさらけ出したと報じました(同29)。
それでも、ピュー・リサーチ・センターの今年(2024年)夏の調査では、調査対象となった35カ国中、ほとんどの国が国連についての印象を「好ましい」と肯定的にに評価しています(同30)。特に高い評価を示したのはフィリピン、ポーランド、スウエーデン、タイ、韓国などで、軒並み70パーセント以上の人々が好意的意見を示しています。概して、欧州諸国、東南アジア諸国は、過半数が国連に好意的な意見を持っていることが分かります。
他方、過半数が国連に好意的な意見を持っていない国は、ギリシャ、トルコ、イスラエル、チュニジア、日本の5カ国です。ギリシャとトルコは、長らくキプロス問題を抱えていますから、「国連、早く何とかしてよ!」と不満を抱えているのは分かりますし、イスラエルは、国連がパレスチナ寄りの決議をたくさん通すので反感を持っていますから、好意的でないのはよく分かります。他方、チュニジアは、パレスチナ問題が解決されていない現状への怒りを国連にぶつけているのでしょう。では、なぜ国連に対する日本の好意的意見が少ないのでしょうか?
日本の調査結果は、41パーセントが好意的で、50パーセントが好意的でないとの意見でした。好意的な意見が40パーセント前後という低い数値を示す状態は、ここ数年続いています。次の表が示すように、かつては好感度が60パーセントを超えた時期もありました。それが過去10年あまりは、40パーセント前後の数字が続いています。国連が75周年を迎えた2020年には、日本の国連への好感度が前年から18パーセントも下落して、29パーセントにまで急落し、国連関係者を驚かせました。
出典:2020年10月24日付読売新聞オンライン
なぜ日本の国連好感度はこんなにも低いのでしょうか?青山学院大学でも、ひとしきり議論がありました。第一に、2020年の急落の原因として、新型コロナウイルスへの国連、特に世界保健機関(WHO)の対応が後手に回ったという一般の見方が影響したものと思われます。第二に、国連安保理の改革が遅々として進まず、常任理事国入りを目指す日本の努力が実を結んでいないところからくる、国民一般のフラストレーションもあるでしょう。そして第三には、日本のメディアが、国連の問題や欠点ばかりを報じる傾向があり、人道支援など地道に活躍している現場の報道が少ないということも指摘できます。
さらにわたしは、今、国際機関の幹部に、顔の見える日本人が少ないことも原因の一つではないかと指摘しました。
現在、国連専門機関のトップとしては、万国郵便連合(UPU)の目時政彦氏が、国連本部では中滿泉軍縮担当事務次長がおられ、がんばっておられますが、昔の明石康氏、緒方貞子さん、大島賢三氏、松浦晃一郎氏などのように、国際的に目立ち、評価もされる活動をしておられる日本人が本当に少なくなりました。それだけに、一般の国民にとっては、国連の活動がよく分からない、国連が身近に感じられないということではないでしょうか?
とはいっても、国際社会が日本に期待するところは依然として大きいものがあります。世界が、自由主義諸国と権威主義的な国々との断絶(グレート・フラクチュア)をいよいよ深めるなか、グローバルサウスとひっくるめて呼ばれる多くの途上国が、両者のあいだで右顧左眄(うこさべん)している現在、その間にあって日本が果たすべき役割は大きいと期待されています。すでに2020年の段階で、英エコノミスト誌は社説で、アメリカが主役を降りるなら、日本やドイツ、さらにはインドやインドネシアが、世界の秩序回復の役目を担うべしと主張しています(スライド33)。
多国間主義の主導者である米国のアイケンベリー・プリンストン大教授も、西側諸国がもっと結束を深め、しっかりと機能しうる連合体を再構築して、中国の権威主義に対抗すべしと提唱しています(同34)。さらに、リチャード・ハース米外交問題評議会会長は、フォーリン・アフェアーズ誌で、志を同じくするいくつかの国でパートナーシップを形成し、中露に対抗するとともに、グローバルな課題に協働して対処すべし(同35)と主張しています。すなわち、国連のようなグローバルな機関での対応が加盟国間の意見対立で困難であるならば、特定の有志連合だけで協力したらいいではないかというアイデアですね。これが、米バイデン政権が最近主張している「格子状の同盟」(Lattice fence)というものですね。
このような有志連合による対応というのは、実際上は意思決定が早いし、効率が高いと思われますが、問題は、国連が有しているような普遍性(ユニバ―サリテイ)と正当性(レジティマシー)を欠くという重大な問題を抱えることです。中国やロシアが、法の支配に基づく行動をとらない限りにおいては、当面は仕方がない気がしますが、やはり同時に、他に代替がきかない国連という組織とその運営の改革を追求する努力は継続していくべきと思います。
長いメイルになり、恐縮です。来年は国連も80歳、傘寿(さんじゅ)を迎えます。漢字の「八」は」末広がりなので縁起が良いとされています。特に中国ではそのようで、2008年の北京オリンピックは、8月8日の午前8時8分8秒に開会されましたね。来年のことを言っても鬼が笑うだけでしょうが、来年は国連にとっても縁起ぎのよい年になってほしいですね。何はともあれ、今日の国連の誕生日をお祝いしましょう。そして、国連の諸改革が実を結んで、日本でも国連への好感度が上がってくれるのを気長に待ちましょう。
ハッピー・バースデー、国連! (了)
前略、
今年の夏はパリオリンピックのテレビ放送にくぎ付けになりましたが、天才的な選手といえるような人がいっぱいいましたね。天才というのは、広辞苑によると、天性の才能、すなわち生まれつき備わったすぐれた才能を持っている人のことをいいます。努力のたまものというよりも、凡人には無い天性の才能がある人のことなのですね。エジソンには、「天才とは1%のひらめき(インスピレーション)と99%の汗のたまものである」という名言がありますが、彼は、「世間はわたしを努力の人と誤解しているが、わたしは1%のひらめきがなければ、99%の努力は無駄になると言ったのだ」と語ったエピソードが残っています。そのひらめき(インスピレーション)がある人が天才なのでしょう。今回は、この天才にまつわる最新の驚くべきニュースを「話のタネ」にしたいと思います。
この世の中には、古今東西、凡人がどう転んでも、どんなに努力を重ねても、まねのできないような素晴らしい才能を持った人というのがいます。前述のエジソン、ミケランジェロ、レオナルド・ダ・ビンチ、ゴッホ、ピカソ、モーツアルト、アインシュタインなどは天才だったでしょうし、村上春樹さんは、今年2月に亡くなった指揮者の小澤征爾さんを「紛れもない天才だった」と評しています。わたしは冗談ではなくてまじめに、今は亡き落語家の桂枝雀も天才の部類に入れたいですね。
テレビのクイズ番組などでも、天才的な才能を見せる人がいます。地球と月の距離を測るなど恐ろしく難しい計算をすらすらとやってのける若者とか、記憶力抜群の人などです。むかし、わたしが直接出会ったある日本人学生は、辞書の各ページをしばらくじっくりと凝視していると、そのまま記憶してしまえるというのでびっくりしたことがあります。黒板に書かれた数多くの数字を一度見ただけで暗唱できるとか、そのような才能を持った人が実際いるのですね。同じように、語学の才能を持った学生にも出会いましたが、彼は、英語、フランス語を簡単にマスターし、次はロシア語に取りかかるとのことでした。
わたしはこれまで、このような天才というのは、特別の才能を持って生まれてきた人だとばかり思っておりました。特別の遺伝子を親から受け継いだか、あるいは、神様に特別に祝福されて、天性の才能をもって生まれてきた人で、その他大勢の、わたしのような凡人とは別個の世界に属する、ごく少数の特別な部類の人と思っておりました。
そういう意味では、人間を天才と凡人に区分する2分類論で、わたしはどう考えてもその後者に属しますから、「仕方がない、少しなりとも努力して、なけなしの才能を向上させるしかない」と考えて、これまで長い間生きてまいりました。広辞苑の編集者だった新村出(しんむら いずる)の短歌「小器われ晩成もせず永らえて 凡器を抱き安らかに生く」に、この上なく共感を覚えて、人生とはそういうものだと達観し、凡人ながらもようやく安堵して終末を迎えられる境地に至ったと自分勝手に思っていたわけです。
ところが、今年6月13日に放映されたNHK番組「あなたの中に眠る天才脳」を見て、心底びっくり仰天しました。なんと、その番組は、具体例を示して、わたしたちの脳には人類進化の過程で備わった「天才的な能力をあえて抑え込む仕組み」が存在し、実は、わたしたち誰しもの脳に天才的な能力が眠っている可能性があるというではありませんか。これまで浜の真砂のごとき凡人と自らあきらめてきたわたしも、たぶんあなたも、誰もかれもが、脳の中に天才的な才能を秘めているというのですから、なんという驚き、ビッグニュースでしょう!
NHKが示したその具体例というのは、(1)見た風景を一瞬で記憶し、写真のように正確な絵を描くことができる少年、(2)難しい曲も一度聴いただけで記憶し弾くことができる盲目のピアニスト、レックス・ルイス、(3)円周率2万2514桁を5時間ぶっ続けて暗証できたダニエル・タメット、(4)奇跡の作曲家デレク・アマート、(5)世界が注目する数学者ジェイソン・パジェットなどです。特異な才能や能力を持つ人々を研究してきたアメリカの専門家の話では、そのような人々は、「特別な記憶力」や「特別な芸術的才能」を持った人、さらには計算能力に長けた人が多いようです。
さて、ここからが一番大事なところなのですが、NHK番組によると、このような研究が進む中で、生まれつき特別な才能があったわけではなく、全く普通の暮らしを送ったあと、人生のある時点で音楽や数学の才能が突然芽生えた人がいることが分かってきたというのです。上述の(4)デレク・アマートは、友人とのパーティーでプールに飛び込んだ際に、頭の左側を強打。病院で数日間の昏睡から目覚めた後、それまでピアノを弾いたこともなかったのに、突然ピアノを弾き始め、作曲の才能も芽生えたのです。(5)のジェイソン・パジェットも、暴漢に襲われ頭を負傷したことで、突然自然界の規則性のある構造を見抜く能力に目覚め、その後数学を勉強して大数学者になったのです。
生まれながらの天才は、脳の右半球の働きが強いというのが共通の特徴とのことです。しかし、10人に1人は、脳の損傷で突然才能が芽生えるケースで、この人たちには、「脳の左半球だけを損傷した」という共通の特徴があることが分かったとのことです。われわれの脳には、その右半球に天才的な能力が備わっているのに、どうも左半球の言語能力などが右半球の才能を抑え込む働きをしているようなのです。それゆえに、脳の左半球だけを損傷すると、もともとの右半球にあった天賦の才能が突然開花するというわけです。
NHKの番組は、認知症の研究から、「言語が視覚的な記憶力を抑え込む」メカニズムが分かってきていると報じています。脳の左半球の萎縮の影響で言語能力が低下する認知症では、一部の患者に、突然絵の才能が芽生える現象が知られているようです。フランスの洞窟に残る原始時代の非常に写実的な壁画は、人類が複雑な言語を獲得する以前で、高い視覚的記憶力を持っていた時だったからこそ、生まれたのかもしれないとのことです。なるほど。
ここから導き出せる結論は、わたしのごとき凡人の脳にも、右半球には天才的な能力が備わっている可能性があり、それはある日突然開花するかもしれないということです。これは楽しみですね。しかし、そのためには、脳の左半球だけ、その機能を低下させるようなケガとか、認知症が必要だということでしょう。認知症の場合は、せっかく才能が開花することになっても、その時には本人はすでに認知症で、自分では認知できないでしょうから、あまり意味はありませんね。
それでは、わたしたちに残された唯一の道は、脳の左半球だけの損傷ですが、金づちを持ってきて脳の左部分をこつこつとたたいても多分ダメでしょうから、突然の交通事故でも待つしかないのでしょうか?この点、NHK番組は、わたしたちの脳に眠る天才的な能力を人工的に目覚めさせる研究がすでに始まっていると伝えています。脳に弱い電流を流す装置を使って、脳の機能を低下させたり、高めたりする研究で、それによって右半球の機能を高めることができるとのことです。米国防総省の研究機関から資金提供を受けたニューメキシコ大学とか、一般の人の中にもそのような装置を使った研究や実験が目下進行中とのことです。今に、日本でも注目されるようになるかもしれません。
なぜわたしがこの話にこんなに興味をそそられたかといいますと、実はわたし自身、これまで二度にわたって頭を損傷したことがあるのです。一度目は、かなり前ですが、バハマのパラダイス・アイランドに家族旅行をした際、息子相手にプールで飛び込みの美技を見せようとして、素晴らしく上手に飛び込んだのはいいのですが、プール底に頭をガツンと打って目の前が血の海になり、すぐに病院に運ばれ、頭を10針ほど縫ってもらったことがあるのです。二度目はもっと最近のことです。岩手のスキー場で転んで頭を強く打ち、10日ほど後にまっすぐ歩けなくなり、虎の門病院で頭蓋骨と脳との間にたまった血液を取り除く手術を受けました。
この二度のケガとも、わたしの脳への損傷は相当程度あったはずです。しかしながら、その後ピアノが弾けるようになったわけでもなく、相変わらず計算能力は下手くそ、あるいは低下中ですので、秘められた天才的な能力が開花しているということを示す兆候は、これまでのところ全然ありません。おかしいなと思い、今回よくよく当時のケガの状況を思い出してみたのですが、どうも二度とも、わたしの脳の左半球ではなく、大事な右半球を強打していた気がします。いやぁー、惜しいことをしました。たいへん残念な話です。(了)