【寄稿】「文明論」の死角~宗教vs反宗教の相克
2024/08/14 10:08
POINT
■世界を見渡すと、複数の国が、国柄が違うように見えながら、ある角度から見ると、似た体質を持っていることがある。ただ、そのような「死角」があることに気付かない人が多い。
■例えば、イランとフランス、米国南部は、およそ異なる社会に見えるが、市民に宗教的ドクトリンを「押し付ける」ことがあるという意味で、似た体質を持つ。フランスと中国も、一見別世界のように見えるが、無神論的ドクトリンに立って「宗教いじめ」をするという点で、似た体質を持つ。
■これら諸国は、いすれも大革命を経験しており、今なお革命精神を引き継ぐ。そのため、イデオロギーへのこだわりが強く、まま攻撃的な言動に走る。
■大革命を経験していない「普通の国」は、かれらに比し、イデオロギーへのこだわりが少なく、現実主義的であり、かれらのような「押し付け」体質は持ち合わせていない。
文明論考家、元駐バチカン大使 上野景文
- はじめに――文明論はどこまで有効か?
文明論考家、元駐バチカン大使の上野景文氏
読売新聞オンラインの「調査研究」のサイトに2020年から2年半、6回にわたり「文明論」を発表し、世界を概覧してきた(各テーマについては文末の主要参考文献参照)。最終回となる今回は、世間から見落とされがちな文明論の「死角」をいくつ選んで解説する。
ところで、私風の「文明論」であるが、出来る限り単純な補助線を一つだけ選んで(私の場合、宗教を補助線として選んだ)、その補助線を使って、世界を一望しようと言うものである。補助線一つで世界を解釈しようと言うのだから、思い切り単純な立てつけになっている。仮説の提示に他ならず、モデル論に過ぎない(=実証的な見解ではない)。
言うまでもなく、文明なり宗教なりを軸に世界が説明しきれるはずがない。世界を解釈する上からは、経済(=そろばん勘定)、政治(=縄張り争い)、軍事(=戦闘機や艦船の数)などの視点から打ち立てた現実論の方が、手っ取り早く、有効だ。文明論がそのような現実論に丸ごととって代わることが出来るとは思っていない。が、現実論に立った説明だけでは、どこか割り切れないもの、もの足りないものが残る時、文明論を援用して隙間を埋めるのも一興であろう。
- 文明論の「死角」
では、本稿で述べる「死角」とは何か。言わんとすることは単純なことだ。たとえば、イランとフランスを比べてみよう。世間の見方は、前者は権威主義と自由抑圧の国、後者は民主主義と人権重視の国ということで、両者は全く異質だと見ている人が多いようであるが(少なくとも、フランスでフランス人に聞いたら、大半は「似ているわけはねぇよ」と切り捨てるように言うであろう)、私には両国はすこぶる似ているように見えてならない。少なくとも、ある角度(死角(1))から見ると。つまり、世間が見逃しているその角度から見ると、両国は「似たもの同士」ということになる。
次いで、イランとテキサス(米国南部)、テキサスとフランス、中国とフランスという三つのペアを取り上げる。世間の大方が異質と見なしているペアであるが、私にはいずれも「似た者同士」と見えてならない。少なくとも、ある角度から見ると。世間は、それらは似ているわけがない、異質であると思い込み、類似性を見逃しているようであるが(死角(2)~(4))。そこで、以下では、世間が見逃がしている四つの「死角」を順次取り上げる。
- 死角(1) イランとフランス
イスラム教シーア派の牙城であるイランは、数少ない神権国家の一つで、宗教指導者が統治の最高指導者として君臨する(その限りでは、バチカンとの相似性が認められる)。
周知のように、宗教色が濃い同国では、女性は外出時にヒジャブ(頭を覆うスカーフ)を着用することが義務付けられている。抵抗する女性が少なくない中、当局は厳しい取り締まりを実施している。欧米系メディアはかかる規制には常時、批判的である。2022年には、着用の仕方をとがめられた女性が逮捕され、警察で急死した。その際には欧米のメディアを中心にイラン批判の声はひときわ高まった。
他方、スカーフ(ヒジャブ)の着用につき、公的な場所、たとえば公立学校で女学生が着用することを宗教政策との関連から禁じているフランスのような国もある。フランスの規制は、「ライシテ」(フランス特有の世俗主義)(注1)に根差す公的規制であり、その意味ではイランの規制と同質的だ。
なお、西洋圏でヒジャブ着用に関して厳しい規制を課している国は、筆者の理解する限りでは、フランス、ベルギーに限られる。一つには、英国であれ、米国であれ、ドイツであれ、北欧であれ、国家と宗教は厳格には分けられておらず(=国家と宗教は「密な関係」を有している局面すらある)、よって、宗教を公的スペースから「排除する」という(フランス的)発想自体、強くないからだ。いま一つには、宗教絡みの衣装を禁じることは、信仰活動の自由を妨げると考えられているからである。現に、私がかつて勤務していた豪州でも、ヒジャブ規制については批判的な人が少なくなかった。
イランにおける規制とフランスにおける規制は、一見正反対に見える。イランはヒジャブを着用せよと言い、フランスは着用するなと言うのだから。でも、それは表面的な違いに過ぎない。肝心なことは、次の二つの角度から見て、両国がやっていることは「同じだ」という点だ。
第1は、公権力が宗教的ドクトリンに基づく規制を課していると言う点。
第2は、規制に反すると一定のペナルティーを科されると言う点。
ここで重要な点を補足する。フランスがヒジャブ着用規制の根拠にしている「ライシテ」と言う国家的イデオロギーは、ずばり「宗教」と言って良い。神抜きではあるが、「ライシテ教」と言って良いだろう。この「ライシテ教」の親玉と言える啓蒙思想も神抜きの「宗教」という性格が強く(その意味で、「啓蒙思想教」との形容がピッタリ)、いくつもの「子分」を輩出した――人権教、自由教、民主主義教、ライシテ教、科学教など――。と言う前提に立つなら、フランスにおけるヒジャブ規制は「ライシテ教」の押し付け(注2)にほかならず、イランがイスラムのドクトリンを押し付けているのと同じ構図となる。
にもかかわらず、欧米系メディアが、イランの規制は批判するのに、フランスの規制は批判しないのは、フェアではない。一つには、フランスは「まともな国」というイメージが定着している一方で、イランは「まともな国」のイメージが希薄なため、両国が「同類」だということを認めたくないからか。つまり、「思い込み」、偏見がものを見えなくしているということだ。いま一つには、特に西洋圏では総じて脱宗教色が強くなっていることから、「宗教(イスラム)いじめ」をしている「ライシテ教」を批判的に見る目が曇っているためということでもある(注3)。
以上から明らかなように、イランもフランスも宗教的ドクトリンを押し付けんとしている点では同類なのだ。
- 死角(2) イランとテキサス(米国南部)
前項では、イランとフランスが同類だという話をした。が、フランスだけではない。米国南部についても同じことが言える。
南部を代表するといわれるテキサス州。同州の人に、「テキサスとイランって、似たところがあるんだってね?」と話しかけたら、おそらくは、きょとんとするか、「ばか言うな」と言って相手にしないだろう。テキサスとイランとは別世界との思い込みがあるからだ。
でも、ある角度から見ると、両者の相似性は明らかになるはずだ。ここでは、人工妊娠中絶についての南部における規制を軸にお話しする。周知のように、宗教保守の伝統が色濃く残っている米国南部では、厳しい中絶規制をしている州が少なくない。一昨年(2022年6月)最高裁が、中絶の権利を認めた1973年の最高裁判決を破棄し、中絶への対処は州ごとに決定するようにとの判断を下したことをご承知のことと思う。その結果、南部を中心に13の州が人工中絶を全面禁止している。その規制の中核は、以下の2点だ。
まず、人工中絶につき、宗教的見地からこれを断罪し、厳しい法的規制を課す。次いで、違反者に刑事罰を含むペナルティーを科す。
前項で、(ヒジャブ着用につき)宗教的ドクトリンを踏まえた公的規制を課し、違反者を罰しているイラン当局の体質に触れたが、この姿たるや、(中絶に関する)テキサス州当局の姿とそっくりではないか。要は、イランもテキサスも、「宗教的ドクトリンに従え。でないと、罰するぞ」と脅しているわけであり、端的に言えば、公権力(国・州)が宗教的ドクトリンを押し付けているということだ。瓜二つと言うほかない。
繰り返しになるが、テキサスとイランが同類だという話は、テキサス人だけでなく、米国人一般が嫌がる話であろう。でも、宗教色が今なお濃厚なテキサスとイランの間の文化的距離は、テキサスと啓蒙思想教に染まったシカゴやNYとの間の文化的距離に比べたら、ずっと近い。それを認めたがらない人が多いところに、死角・盲点があるわけだ。ともあれ、イランと比較することにより、テキサスのある種の本質は浮き彫りになる。
文化的距離 テキサス~イラン<<テキサス~NY・シカゴ
さらに付け加えるなら、イランとテキサスとは、モダニズム(啓蒙思想)とイデオロギー的に対決している――イランは革命以来、西洋モダニズムと対決し、テキサスは南北戦争以来北部モダニズム(啓蒙思想)と対決してきている――という意味で、イデオロギー的に同志的なポジションにあるようにすら見える、と言う点に着眼する人は少ないようだが。
- 死角(3) テキサス(米国南部)とフランス
以上をまとめると、テキサス、フランス、それにイランという3アクターは、宗教的ドクトリンを人々に「押し付ける」という意味で、同じ体質を有している、ということだ。つまり、一見かなり異なる文化、社会を代表する3アクターであるが、一皮むくと、似た体質が露(あらわ) になるという点が、私の文明論の核心となる。
- 死角(4) 中国とフランス
最後に、中国とフランスを取り上げる。ここでも、世間の多くは、「両国はイメージ的に全然違う」という捉え方だと思う。が、イメージにとらわれ過ぎると、本質(両国の相似性)を見逃す恐れがある。意外かもしれないが、両国には共通項が少なくないのだ。以下、4点に整理してお話しする。
第1に、両国の革命政権(フランスは1789年、中国は1949年に成立)は、特に当初、過酷な宗教弾圧をおこなった(ことが共通する)。両政権とも、多くの宗教人を拘束・逮捕・殺戮 したほか、宗教施設の破壊も行った。それだけ似た行動をとったのは、両革命政権が、似た体質・イデオロギーを有していたためと思われる。すなわち、両国の革命政権は当初から反宗教、反教会的体質が強かった。そうした体質は、今日まで引き継がれている。
第2に、宗教は個人の内面の問題であり、私的領域に「囲い込み」、「閉じ込める」べきであるという点でも両国は似た思想を持つ(ライシテ的イデオロギー)。宗教を「囲い込む」という基本に立つので、両国とも、教会・宗教を「管理しよう」との気構えが強い。象徴的な事例が人事管理、特にカトリック教会の司教の任命(権)だ。皇帝ナポレオンは、革命政権から受け継いだ精神に沿い、本来、教皇の権能とされている司教任命権を教皇から取り上げ、自らの掌中に収めた(=後年返上)。中国政府も、カトリック教会の司教任命権を自ら行使している(=北京とバチカン間に横たわる最大のとげの一つ)(注4)。その意味で、中国政府はナポレオンと同じ発想に立つ。
第3に、フランスで「管理マインド」と並んで目立つのが「規制マインド」だ。既述のように、フランス政府はイスラムの服装について規制することを憚(はばか)らないが、このフランス特有の「規制マインド・統制マインド」(注5)は、中国政府でも顕著だ。かれらは、特に新疆において、イスラム教徒の服装や長いヒゲを厳しく規制する。モスク、教会堂の意匠への規制も厳しさを増している。という点で、中国とフランスは似た発想をする。もっとも、中国の規制は、フランスに比べ10倍くらい過酷に見えるが。
第4に、中国政府は、ことあるごとに「(中国の)宗教は中国化させよ」と訓示する。フランスのマクロン大統領も、「(フランスの)イスラムはフランス化させねばならない」と説く。ここでも、なぜか、同じ発想をする。
それに加え、中国政府は特にこの数年、「(中国の)宗教は共産主義に従え」という点を強調するようになっている。マクロン大統領も、「(フランスの)イスラムは啓蒙思想に従え」と説いている。似た発想だ。要は、両者とも「国のイデオロギーに従え」と言っているわけだ。
以上のように、中国とフランスは、お国柄が違うにもかかわらず、ある角度から見ると、幾つもの類似性があることに気付かされる。特に、「宗教いじめ」の体質が共通する点はもっと着目されてよい。
- 4大アクターは革命を経験してイデオロギーに傾く
さて、文明論の「死角」ということで取り上げた4大アクター(イラン、フランス、テキサス等、中国)であるが、かれらは、普通の国に比べ、イデオロギーへのこだわりが格別強い。最後に、その点を中心に、4大アクターの共通項(4点)を取り上げる。
- 宗教的ドクトリン「押し付け」体質が強い
- 理念・イデオロギー突出型で、「イデオロギー・ファースト」主義が強い
- そのため、「白か黒か」の両極に走りがち(=グレーを避ける傾向が強い)
- 戦闘的姿勢、攻撃的(アグレッシブな)姿勢が目立つ
では、4大アクターが抱えるこれらの共通項はどこから来るのであろうか?答えは単純だ。フランスを含む4大アクターは、いずれも、過去に大革命を経験しており、今なお、革命精神を引き継いでいる。テキサスについては、既述のように、革命こそ経ていないが、南北戦争以来、北部とのイデオロギー対決を維持してきており、革命国家に比し得る体質と経験を有する。かれらがイデオロギー突出型で、まま攻撃的言動に走るのは、そうした経緯(=初心)によるのだろう。
すなわち、4大アクターは、イデオロギー過多であることから、経験・歴史、あるいは、伝統・文化などを軽視して、急進的な言動に走りがちであり、まま大混乱を招く。かかる難点は、エドモンド・バークが、フランス革命後の混乱と悲劇を目にして、これを批判した際、つとに語っていた諸点である。フランスのみならず、中国を含む4大アクターの行状には、総じてバークによる批判が当てはまりそうだ。
逆に、同じ西欧でも、英国、北欧、ドイツなどは、総じて大革命を経ることなく、漸進主義で歩んできたことから、かれらの言動は4大アクターとは異なり、特定のイデオロギーにとらわれることが少なく、現実主義的で、おとなしめだ。
これら「普通の国」からはドクトリン「押し付け」的体質はあまり感じられない。ヒジャブ着用を禁止するといった極端な発想は、かれらの肌には合わないようだ。また、「イデオロギー突出型」ではないので、国家と宗教を完全なまでに峻別するフランス的発想(ライシテ)も希薄である。つまり、英国であれ、北欧であれ、ドイツであれ、国家と宗教が長年懇ろに付き合ってきた歴史を大事にしている。イデオロギーによって歴史を白紙還元するという(フランス的)発想はない。
要するに、西欧で多数派を成すかれらとフランスを分かつものは、イデオロギーへのこだわりだ。かれら(多数派)は、イデオロギーに引きずられて極論に走ることは少なく、現実主義志向が強い。その都度主義が強いといっても良いだろう(悪く言えば、「ナーナー」主義ということになる)。
以上触れてきたように、4大アクターにつき、じっくり覧察すると、思わぬ形で世界の実相が見えてくる。最後に、それらの諸点を踏まえて、「上野風文明チャート」をプロットしてみた。ご参考になればと念じている。
- プロフィル
上野 景文( うえの・かげふみ )
1948年生まれ。元杏林大客員教授、元立教大学兼任講師、元国際日本文化研究センター共同研究員。著書に『バチカンの聖と俗』、『現代日本文明論』、共著『ケルトと日本』など
注釈
(注1)フランスでは、国家と宗教の関係等を律した1905年制定の宗教基本法により、宗教を「公的なスペース」に持ち込むことはご法度とされている。宗教活動は「私的領域」に限って許されるということだ。例えば、大統領就任に際し、米国のように聖書に手を置いて宣誓することは(同国では)あり得ない。同様に、公立学校に通う生徒は、宗教的シンボル、たとえば、イスラム信徒(女性)が着用するヒジャブの着用を禁止されており、違反者はペナルティーを科せられる。かかるフランス特有の規制は、ライシテ抜きには理解困難だ。
(注2)言うまでもなく、この「ライシテ教」は革命精神を引き継ぐ国家的イデオロギーであり、国体を支えているので、このヒジャブ騒動、実は根が深い。
(注3)フランスは「カトリックの国」というイメージが強いため、フランス革命以来、同国でカトリック教会叩(たた)きが常時継続してきたという事実がかすみがちである。また、同国人口の約4割は「自分は無神論者だ」としているが、この割合はEU27か国中トップである。つまり、フランスという国は、カトリック国というイメージとは裏腹に、西欧で脱宗教化・無神論化の先頭を走っている。このことを見逃すわけにはいかない。
(注4)同じ社会主義政権でも、ベトナムは、教皇の司教任命権を受け入れており、中国のようなこだわりは見せない。
(注5)私の知る限り、英国や米国ではその類の「規制マインド」は希薄だ。
主要参考文献
上野景文(2020年12月25日)「西洋における『文明衝突』」<上>(読売新聞オンライン
同(2020年12月25日)西洋における『文明衝突』」<下>(同)
同(2022年1月6日)「西洋における文明の転換」(『動物権』思想とキリスト教的DNA)(同)
同(2023年2月3日)「現代における『文明対立』ロシア、サウジアラビア、米国南部に見る『前近代』」(同)
同(2023年5月29日)「混合文明としてのグローバル・サウス」<上>(同)
同(2023年6月1日)「混合文明としてのグローバル・サウス」<下>(同)