第三章 別離の記憶 ⑥林正順 2 「勝くん」この絵を描いた絵描きさんたちはね、みんなまずしかったんだ。親兄弟にも恵まれず、まるで申し合わせたように誰もが 孤独だった。ひとりぽっちだった。でもね、自分の好きな絵を 一生けんめい勉強して、自分の人生をめいっぱい生きた・・・・」 林は、自分の話し相手の勝が、まだ小学校3年生であることを 忘れているようだった。 画家1人1人の事となると、とりわけ絵の描き方のことになると。 とうてい勝には理解できない難しいことばがいくつも飛び出した。 ふだんあまり喋らないぶん、林は勝に手加減なく、自分の思いを そっくり語り聞かせているかのようだ。 勝もわけが分からないものの、陽に焼けて頬が削げたような林の 顔のキラキラした目に見つめられると、それこそ金縛りにあったように、身動きできなかった。 だが決して不快ではない。学校の授業だったら、たちまちシビレを切らして、ウソウソと落ち着きがなくなるのに、林の熱弁の前では 蛇にみこまれたカエルのように身じろぎもせず神妙になってしまうのだ。 「勝くんは、いたずらが好きかい?ほんとうに好きかい?人を驚かせたり困らせたりすることが、ほんとうに面白いかい?」 勝は首をひねる。林は黙って勝の答えを待っているのだが、 かといって答えを急かすという雰囲気はない。 むしろ、まなざしが「よーく考えてごらん」と言っている。 実際のところ、勝にはこういう問答の経験がまるでない。 第一、じっと座って人と向き合って話すということがない。 大いに苦手である。 ちょっと考えると、バクハツしそうにイラつくはずなの場面なのに 林と対座していると、そのイラつきがない。 そればかりか、自分を一丁前の大人のように扱ってくれる林の、 それでいて、勝の思考のテンポを急がせたりしないこころ遣いの せいかどうか、ゆったり構えてそれなりの応対ができる。 勝はいつのまにか、一番不得手な場面に自分が逃げ出しもせず、 嫌がりもせずに、もっともらしい顔をして座っていることに気づく。 「ほんとうはね・・・ほんとうは、いたずらなんて面白くない・・・・」 そんな歯切れの悪い勝の呟きに、林は大まじめな顔を一瞬ほころばせた。勝はこういう父さんがいたらいいなと思う。 父さんじゃない兄さんかもしれないなと思い返す。 「きっとね、勝くんはね、とんでもないいたずらや悪さをすることよりも、もっと楽しい、もっと一生けんめいになれるものを、見つけると思うな。」 林が笑うと、粒のそろった白い歯並びがのぞいた。 ハラリと額に長い前髪が落ちる。 「兄ちゃんは、絵が好きなんだね」 「そう描くことが好きだ。どんな絵を描いていても、自分の考えていることを、いま描いている絵の中につい入れようとするんだ。」 「よく分からない」 「うん。ややっこしいこと言っているかもしれない。ほんとはね、 そこのあるもの・・・・花でも、道具でも、風景でも、あるものをそのまま寸分の間違いや誤りがないように写し取ろうとすればいいんだと思う。でもそのうちに、花なら花の気持ちになってきちゃうんだ。馬なら馬の気持ちになって描きはじめちゃうんだ」 「ふーん。山を描くときは山の気持ちになるの?」 「そういうことだ。冬の山なら冬の山、夏の山なら夏の山」 「赤井嶽を描いたことある?」 赤井嶽とは名はいかめしいが、海抜600メートルちょっとの丘にすぎない。 「ある。どんな低い山にも、名も知らぬ山にさえ、自分はここにいるぞ!という主張があるんだ」 「ボタ山は?」 林はおおきくうなずいて、勝の質問を新しい笑顔で受けた。 「ボタ山はいくつもあるけど、でもね、同じボタ山でも、 ずっと以前にできて、雨や風に晒されてさ、雑草や雑木が生えているようなのが僕は好きでね。そういうボタ山も、ちゃんと自分は ここにいると言ってるんだ」 平は石炭の街だった。 常磐炭田は本州最大といわれる規模で、昭和35年以後、単価の安い 石油にとってかわられることになるが、それまで日本の火力エネルギーの基をささえていた。 “炭住”とよばれる炭鉱従業員の住む家が建ち並び、あちこちに、 選炭したあとの土石を積み上げた小山があった。 “ボタ山”と言い、炭坑の街のシンボルでもあった。 勝は林が喋り終ると、少し間をおいて、 「うちのバッバがね・・・・じゃない、うちのおばあちゃんが、 草には雑草というのはないんだって。ボタ山に生えている草にも、 ちゃんと名前がついていると言っていた」 林は勝のちょっと広めのおでこを人差し指ではじいてアハハと笑った。 「そのとおりだ、勝くんはいいことを憶えていたな。そうなんだよな。雑木というものもない。じゃ、ボタ山に生えてい細っこい木は 何て名前の木かを調べなきゃ」 続く