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        2.生活苦からの逃避と留学生たちとの生活
        
        中国の国費留学生との関わりは1980年くらいから始まったのですが、1983年に時の内閣総理大臣中曽根さんの10万人を日本に呼ぼうという話がありまして、1985年あたりから上海付近の日本語学校に行っていた人たちが私費学生として来始めまして、数も増えてきました。日本文化とか色々なものが分からなくて、ただ来るものですから、まわりに迷惑をかけて混乱したという時期もありました。
        
        1987年になりまして上海の日本語学校が金儲け主義に走り、卒業証を1万円でどんどん発行したのです。その段階で中国人は日本に行けると思い、実際沢山の私費留学生が来るようになり始めました。実際は日本の入管が許可しないと日本にはいれないのです。1985年あたりから日本政府は私費学生と国費留学生を分けまして、国費留学生は4-1-6という入管番号だったのです。
        
         私費学生は4-1-16-3でした。入管ははっきりとこのグループを分けて管理していましたが、私たちは国費学生も私費学生も留学生と言っていました。私費学生は一般の日本語学校に入っている方で、その方々の目標は日本語学校で勉強して将来日本の大学に入って、少し小遣いでも貯めて帰ろうという方が多かったような気がします。
        
         後になると、お世話をしてあげて親しくなって帰った方々が、こんどはうちの子供を頼むということになり、私の家に名刺一枚持って子供が訪ねてくるようになりました。ひどいときは3人くらい来まして、そちらは日本語が分からない、こちらは中国語が分からない、トイレにいくのにも一騒ぎということになりました。その度に寮に行きまして寮の方々に通訳をしてもらってなんとかしのいだのです。
        
        
         彼等に「何故うちに来たのか」と聞くと「お父さんにあそこに面白い八百屋がいるから行けと言われました」と言うのです。そんな人が3人も来て御覧なさい。円満な家も円満ではなくなりますよ。家内は怒るし、お金はなくなるし、商売にも影響し、もう家族との葛藤は大変なものがありました。国費留学生たちは日本語が上手なのですが、私費留学でくる人は全然駄目な人が多いので余計手間と時間がかかるのです。
        
         彼等を見ていると日本の文化と彼等の文化がずいぶん違うことに気がつかされます。アパートはみんな安いところに入ります。チンジャーロースなんてすごい火を焚いた料理をします。大家さんがもう火事になるかと吃驚してしまって、そのたびに「五十嵐さんなんとかしてくれ」という話になるのです。 
        
        熱心に話を聞く受講生
        
        それで「ここは日本なので注意するように」と言いますとみんな「大丈夫」と言うのです。大丈夫ではないと言うんですがね。そして無理して勉強したり学費を稼いだりする関係で身体を壊します。日本にはこういう時助けてくれるボランティアはいます。でもせいぜい病院とそこの場所を教えてあげるまでです。私は「ちょっと待ってろ」とすぐ車で行きます。お医者さんまで行って、付き添って診てもらいます。すると最後に診療費がないという話になります。しかたがないからそれを出したりするうちにどんどんお金がなくなっていきます。
        
         人間いったん悪くなると不思議なもので、店の商売も悪くなって来るのです。今まで沢山仕入れていた市場からも少ししか仕入れられない。それも売れ残って、翌日に元気のない野菜が並ぶようになる。すると男って言うのは面白いもので、そこから逃げるようになるんですね。そして向こうから中国の留学生が来ると
        もう「ニーハオ、ニーハオ」なんて言ってね、こっちから擦寄るようになるんですよ。
        
        あれほどお金がかかって嫌がっていたお世話の仕事を「何かない?」とか「引越しはない?」とか「だれか成田に来ない?」とか聞くようになるんです。ですからこの時期は一カ月に4,5回成田に行きましたよ。迎えに行ったり送って言ったり引越しを手伝ったり、色々なことをしました。
        
         私は今50万円あって、「さあ市場に買出しに行こう」というとき留学生が困ったという話があると、当時はなんの考えもなく、「いいよ持っていきな」といい格好しましね。そうしているうちに市場の鑑札まで取られてしまって、市場で買出しができなくなりました。そうすると一層現実から逃げるようになります。
        
        1987年からうちの家計はものすごくきつくなりました。自転車があれば留学生にあげてしまったり、中国の留学生がどこかの自転車を持ってきてしまってお巡りさんに呼び出された時も、「五十嵐さんから貰った」なんて言いましたから、私が今度は呼び出されるし、まあ滅茶苦茶でそれでもお世話をすることで生き甲斐をみつけている感じでしたね。
        
        そして自分ひとりでは限界があるということで協会を作りました。中国留学生後援協会ということで会報なんかも出しましたね。これもお金がかかりまして力尽きまして1998年くらいに止める様なかたちになりました。その活動は秋には梨狩り、4月には清里へバス2台で旅行、あとは月に一度はうちの店の二階で餃子パーティをやりました。それは楽しかったですね。10坪のなかに30人くらい集まってやりました。その後片付けが大変ですがね。
        
        
         私がなぜ中国の方々と仲良くなったか、いまでも仲良く付き合っているかというとお互い秘密がいっぱい共有しているからです。それを二人だけの物にしておくのです。北京に行ったりして古い友人にあっても、過去の警察に捕まった話とか2人だけの思い出を話すのが一番親密な時間になりますね。色々な問題が各人ありましたからね。
        
        

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