3.私たちの生活が映画になった 砂の器とか八甲田山とかいう映画を作られた川鍋兼雄さんと言う方がいらして、そのひとは橋本忍プロダクションにいたのですね。 1988年のあるとき川鍋さんが私のところに来て、あなたのことを映画化したいって言うんですね。映画化って言ったって、八百屋で毎日中国の留学生の世話ばっかりやっていて、家の中に入れば子供と奥さんに白い目で見られている自分が何でと正直驚きましたね。 橋本忍とは何者だろうと思って電話をかけて確認したりして、本当の話ではないんだろうとも疑っていましたが、川鍋さんはその後何回もいらして、話は具体化しました。 最初のキャスティングは私の役が武田鉄也さん、家内の役が竹下景子さんでした。それでやろうということになりまして、中国に連絡して協力依頼をしたりしましたが、どうも中国側の対応が遅くて、なんだかんだといっているうちに武田鉄也さんから渥美清さんに主演が代わりました。 そのころ寅さんシリーズの人気が落ちてきまして、松竹もなにか新しい路線はないかと探していたようですね。 それで八百屋が中国に行ってどたばたをやるような話を考えたのではないでしょうか?題名も最初は「馬鹿春北京に行く」という題名でしたね。 そんなことで紆余曲折はありましたが1989年に脚本が出来あがりました。脚本は「はぐれ刑事」をやった方で石松愛甲さんという方が書きました。 そして監督が大林宣彦さんに決定し、私の役はベンガルという俳優さんに決まりました。家内の役は母袋さん、そのほか浅香光代さんとか柄本さんとか根岸さんとかで脇を固めて1989年の2月25日 八百春の近くに大林さんはセットを作りまして、撮影が始まりました。 セットの方の八百屋にほうれん草を置いて撮影します。 ところがセットの方のほうれん草が本物の八百屋の店頭のものより生きがいいのですよ。 セットの方のほうれん草を売ってくれなんてお客さんに言われましたね。 「北京の西瓜」という題になりましたのでとにかく西瓜を沢山使いました。西瓜を沢山並べるのですね。 その時期は2月でしたからハウス栽培の西瓜しかなくて、西瓜は高いんですよ。大林さんは当時3000円くらいで買ってくれました。 私はなんとか安いものをやりくりしようと、市場に行って穴の空いている傷物の西瓜を1000円くらいで仕入れて来ましてね、それでも大林さんは3000円で買ってくれるのですよ。助かりました。 ですが実際に西瓜を切るシーンになって大林さんに「五十嵐さん穴のあいていない西瓜はないですかね」と言われた時にはあせりましたね。またうちの家内はエキストラで儲けましたね。大勢の地元の人を集めることもしました。ずいぶんこの撮影では我が家の家計は金銭的に助かりました。 そんなことをしながら時はたって1989年の4月25日に国内の撮影は終わりました。さあ北京に行こうとなった6月4日天安門事件が起きたのです。でもその時も中国の留学生は北京、上海から2組くらい来たんですよ。迎えに行きました。そんなタイミングで天安門事件が影響し、日本人はみんな中国が嫌いだという雰囲気が漂う中で11月18日に松竹系で封切されました。映画は散々でした。 カンヌに出すつもりで松竹は進めていたのですが、天安門事件のことがありまして、やめたのです。 でもこの映画は日本ではヒットしませんでしたが、香港、台湾、シンガポール、カナダ、アメリカなどでは見る人が多く、評価されたと聞いています。日本でも客の入りとは別に作品の評価は高く、1989年の映画賞で山路文子賞とか毎日映画賞なんかを頂いた記憶があります。